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日本史の雑学まとめ49選【役には立たないけれど面白いエピソード&事件】

戦国から幕末・明治、古代まで、偉人や出来事には教科書では知れない意外な裏話がたくさんあります。信長のかき氷好きや秀吉の親指の秘密、家康の健康法、政宗の料理好きなど、人間らしい一面が見えてきます。江戸の文化や忍者・歌舞伎の裏話も、歴史の面白さをぐっと身近にしてくれます。ただ正直まったく学校の勉強には役立ちませんし、なんなら話題にあげてもそんな盛り上がらないですが、とにかく面白いことに変わりはありませんので、ぜひ最後まで読み進めてみてください。

 

目次

戦国・安土桃山時代

1. 信長は真夏に氷菓子を作らせていた

織田信長は新しいもの好きで、甘党としても知られています。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、信長は真夏に領地の山(伊吹山など)から雪や氷を運ばせ、それを削って貴重な甘味料をかけ、ゲストに振る舞ったそうです。冷蔵庫のない時代、真夏に冷たい氷を食べることは権力者だけが許された究極の贅沢であり、信長の権威と、客人を驚かせようとするエンターテイナーとしての一面がうかがえるエピソードです。

 

2. 秀吉は右手の親指が2本あった

豊臣秀吉には右手の親指が2本あり、指が計6本あったという有力な説があります。前田利家の回顧録『国祖遺言』や宣教師フロイスの記録にも「指が6本あった」という記述が残っており、多指症であった可能性が高いとされています。秀吉自身はこのことを気にしていたようで、当時の肖像画では右手の親指を隠すように描かせたり、手袋を使ったりしていたとも言われており、天下人の密かなコンプレックスが見えてきます。

 

3. 武田信玄は美少年の家臣に浮気を疑われ弁明した

「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄ですが、プライベートでは恋人の高坂昌信(春日源助)という男性家臣に浮気を疑われ、必死に弁明の手紙を送っています。「弥七郎という男に言い寄った事実は断じてない。嘘をついていたら神罰を受けてもいい」といった内容の誓詞が現存しており、戦国最強の武将が恋人の機嫌を直そうとオロオロする姿は、現代の恋愛トラブルと変わらず、非常に人間味があふれています。

 

4. 家康は健康オタクだが死因は「天ぷら」ではない

徳川家康は薬草を自ら調合し、麦飯や八丁味噌を愛する健康オタクでした。有名な「鯛の天ぷらを食べて死んだ」という話は少し誤解があります。確かに好物の天ぷらを大量に食べて腹痛を起こしましたが、実際に亡くなったのはその約3ヶ月後です。現代医学では「胃がん」が直接の死因だったとする説が有力です。とはいえ、70代過ぎても脂っこい天ぷらを平らげるほどの食欲があったことは、彼の長寿の秘訣だったのかもしれません。

 

5. 伊達政宗はこだわりの料理男子だった

独眼竜・伊達政宗は、戦国武将きっての美食家であり、自ら包丁を握る「料理男子」でした。「馳走(ちそう)とは、旬の食材を自ら駆け回って集め、もてなすことだ」という名言を残し、献立の考案から調理までを行いました。仙台名物の「ずんだ餅」も政宗が考案したという説があるほか、凍り豆腐や味噌の研究も行うなど、その探究心は戦だけでなく食文化の発展にも大きく貢献しています。

 

6. 加藤清正の「虎退治」は後世のイメージ

加藤清正といえば朝鮮出兵での「虎退治」が有名ですが、彼が一人で槍を持って虎を仕留めたというのは、後世の講談や浮世絵によって作られたイメージが強いです。実際には鉄砲隊を使って集団で狩りを行った記録が残っています。しかし、当時虎の皮を秀吉に献上したのは事実であり、その武勇伝が江戸時代に脚色され、「清正=虎退治」という勇猛な英雄像として定着したようです。

 

7. 石田三成は几帳面すぎて嫌われた

石田三成は極めて優秀な実務家でしたが、あまりに几帳面で融通が利かず、多くの武将から嫌われました。兵糧の管理や帳簿のチェックを徹底し、数字が少しでも合わないと徹夜で調べ上げ、規則違反には厳罰で対処しました。現代の企業なら経理や総務のスペシャリストとして重宝されますが、豪快な気質を好む戦国武将たちからは「頭でっかちで可愛げがない」と反感を買う原因となってしまいました。

 

8. 「真田幸村」という名前は生前使われていない


大坂の陣で活躍した英雄「真田幸村」ですが、実は生前の史料には「幸村」という名は一度も登場しません。彼の本名は「真田信繁(のぶしげ)」です。「幸村」という名前は、江戸時代に書かれた軍記物(小説)の中で創作されたものです。しかし、その物語があまりにも人気を博したため、本名よりも「幸村」という名前が世間に定着してしまいました。歴史上の人物の名前がファンの手によって書き換えられた代表例です。

 

9. 豊臣秀頼は身長190cmを超える巨漢だった

豊臣秀吉の息子・秀頼は、小柄だった父とは対照的に、身長約197cm、体重160kgとも言われる並外れた巨漢でした。当時の平均身長が160cm未満だったことを考えると、現代のプロレスラー並みの体格です。このあまりの体格差から、当時は「本当に秀吉の子なのか?」という噂も囁かれました。二条城で会見した徳川家康も、立派に成長した秀頼の威圧感に驚異を感じ、豊臣家を潰す決意を固めたとも言われています。

 

10. 本能寺に信長の遺体は見つかっていない

本能寺の変で明智光秀に討たれた織田信長ですが、その遺体は現場から発見されませんでした。通説では激しい炎で完全に焼き尽くされたとされていますが、遺体が見つからなかったことが「実は秘密の通路から脱出したのではないか」「誰かが遺体を持ち去ったのではないか」という様々な生存説やミステリーを生むことになりました。信長の最期が今なお多くの物語の題材になるのは、この「消えた遺体」の謎があるからです。

 

11. 関ヶ原の戦いは、実は短時間で決着した

「天下分け目」と言われる関ヶ原の戦いですが、激戦が一日中続いたわけではありません。午前8時頃に開戦しましたが、正午過ぎに小早川秀秋が裏切ったことで形勢が一気に傾き、午後2時頃には勝敗が決しました。実質的な戦闘時間は6時間程度、本格的な衝突はもっと短かったとも言われています。日本の未来を決めた巨大な戦いが、たった半日ほどの出来事だったというのは意外な事実です。

 

江戸時代

12. 江戸時代、大店の主人の「うんこ」は高値で売れた

江戸時代、人糞は貴重な農業用肥料としてリサイクルされていました。特に栄養価の高い食事をとっていた大店の主人や武家屋敷の排泄物は、庶民のものより質が良いとされ、高値で取引されていました。大家にとっては長屋の住人の排泄物を肥料業者に売ることが重要な収入源であり、「店賃(家賃)を下げてでも、うんこを確保しろ」と言われるほど、当時の江戸は高度な循環型社会だったのです。

 

13. 武士は犬を抱いて寝ることもあった

江戸時代の冬は寒く、暖房器具も限られていました。一部の武士や裕福な層の間では、狆(ちん)などの小型犬を抱いて寝たり、「犬袋」と呼ばれる犬の形をした張り子の箱を湯たんぽ代わりに使ったりする風習がありました。生きた犬を抱いて体温で暖まることもあったようで、強面な武士が布団の中で小さな犬を抱いて寒さをしのいでいる姿を想像すると、どこか微笑ましいものがあります。

 

14. 赤穂浪士の半数は再就職活動をしていた

忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りですが、全員が最初から死を覚悟して集まったわけではありません。お家取り潰しにより彼らは失業した「浪人」であり、当初は半数以上が他家への再就職(仕官)を希望していました。大石内蔵助も当初はお家再興を幕府に嘆願するなど、穏便な解決を模索しています。美談の裏には、突然職を失ったサラリーマンのような、切実な生活の悩みがあったのです。

 

15. 「生類憐みの令」には弱者保護の側面もあった

5代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」は、犬を極端に保護した悪法として知られていますが、実は「捨て子」や「行き倒れの老人」の保護も命じた法律でした。戦国時代の殺伐とした気風を改め、命を大切にする道徳を植え付ける目的があったのです。とはいえ、運用がエスカレートし、蚊を殺しただけで処罰されるほど厳格化してしまったため、庶民からは大不評を買うことになりました。

 

16. 大奥は3000人の女性が住む完全な女社会

江戸城の大奥は、将軍の家族や世話係の女性たちが暮らす場所で、最盛期には女中を含めて1000人から3000人もの女性がいたと言われています。ここに入れる男性は将軍のみ。将軍の寵愛を受けるため、あるいは出世のために、女性たちの間では激しい派閥争いや嫉妬が渦巻いていました。きらびやかな衣装の下で繰り広げられるドロドロとした権力闘争は、まさに現代のドラマ顔負けの世界でした。

 

17. 徳川家光は女性が苦手な男色家だった

3代将軍・徳川家光は若い頃、女性に全く興味を示さず、美少年の小姓たちを愛する男色家でした。これに危機感を抱いた乳母の春日局は、家光の好みそうな女性を必死に探し出し、なかば強引に寝室へ送り込むなどして、なんとか世継ぎを作らせようと奔走しました。当時は武士の間で男色は珍しいことではありませんでしたが、将軍の世継ぎ問題にまで発展した珍しいケースです。

 

18. 吉良上野介は地元では慕われる名君だった

忠臣蔵では浅野内匠頭をいじめる憎らしい悪役として描かれる吉良上野介ですが、彼の領地であった愛知県(現在の西尾市吉良町)では、全く逆の評価を受けています。彼は水害に悩む領民のために私財を投じて堤防(黄金堤)を築き、新田開発を行うなど、領民の生活を豊かにした「名君」として今でも深く慕われています。歴史は勝者や物語の都合によって、善悪が入れ替わってしまう良い例です。

 

19. 松尾芭蕉には伊賀忍者のスパイ説がある

『奥の細道』で知られる俳人・松尾芭蕉には、実は忍者(幕府の隠密)だったという説があります。彼は40代後半という当時では高齢な年齢で、東北などの険しい道を驚異的なペースで歩き通しました。また、出身地が伊賀(忍者の里)であることや、旅先で詳しく現地の情勢を記録していることから、「俳句の旅を隠れ蓑にしたスパイ活動だったのでは?」という歴史ロマンがささやかれています。

 

20. 江戸時代の離婚率は現代よりも高かった

江戸時代の庶民の結婚観は意外にもドライで、離婚率は現代よりも高かったというデータがあります。特に都市部では「三行半(みくだりはん)」と呼ばれる短い離縁状を渡すだけで簡単に離婚が成立し、再婚も当たり前に行われていました。「家」を重んじる武家社会とは異なり、庶民の間ではお互いが合わなければすぐに別れて次を探すという、現代以上に自由でフランクな男女関係が存在していました。

 

21. 歌舞伎はもともと女性が演じていた

日本の伝統芸能である歌舞伎は、現在では男性のみが演じますが、ルーツは「出雲阿国(いずものおくに)」という女性が始めた「かぶき踊り」です。当初は女性が演じていましたが、風紀が乱れるという理由で幕府が禁止。次に美少年が演じるようになりましたが、これも同様の理由で禁止され、最終的に成人男性がカツラを被って演じる「野郎歌舞伎」となり、現在のスタイルへと進化していきました。

 

22. 江戸の火消しは消火活動より喧嘩が仕事だった

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、江戸の町火消したちは非常に血気盛んでした。当時の消火方法は建物を壊して延焼を防ぐ「破壊消防」だったため、現場に到着した異なる組の火消したちが「ここは俺たちの縄張りだ」「俺たちが壊す(消す)」と揉め始め、消火そっちのけで大喧嘩になることも珍しくありませんでした。彼らの喧嘩っ早さは、江戸っ子の威勢の良さの象徴でもありました。

 

幕末・明治時代

23. 新選組の「浅葱色の羽織」はダサくて不評だった

新選組といえば、鮮やかな浅葱色(水色)に山形の模様が入った羽織がトレードマークですが、実は隊士たちからは大不評でした。当時、この色は切腹する武士が着る死に装束を連想させたり、田舎臭い色とされたりしていたため、「かっこ悪い」「着たくない」という声が続出しました。しかし、局長の近藤勇はあえて目立つこの色を採用し、組織の結束と「死を恐れない」覚悟をアピールしたと言われています。

 

24. 坂本龍馬は日本初の拳銃マニアだった

坂本龍馬は新しい武器への関心が高く、日本で初めて拳銃(ピストル)を護身用として携帯した人物の一人です。高杉晋作から贈られたスミス&ウェッソンなどの拳銃を愛用し、妻のお龍との新婚旅行でも持ち歩いていました。有名な「寺田屋事件」で幕府の捕吏に襲われた際には、実際にこの拳銃を発砲して応戦し、危機を脱しています。刀よりも銃の時代が来ると予見していた龍馬らしいエピソードです。

 

25. 沖田総司は美少年ではなかった説が有力

新選組一番隊組長・沖田総司といえば「病弱な美少年」のイメージが定着していますが、これは後世の小説や映画で作られたものです。実際の沖田は、色黒でヒラメ顔、よく笑う愛嬌のある青年だったという証言が残っています。美少年イメージは、彼が結核という悲劇的な病で若くして亡くなったことや、名前の響きからくる儚さから、作家たちが理想化して作り上げたキャラクター像と言えます。

 

26. 西郷隆盛の有名な銅像は本人の顔ではない

上野公園にある西郷隆盛の銅像はあまりにも有名ですが、完成披露式典に招かれた妻の糸子は「うちの人はこんな顔じゃなかった」と驚いたと言われています。実は西郷隆盛は写真嫌いで、一枚も写真を残していません。そのため、銅像や肖像画を作る際は、彼の弟(西郷従道)や従兄弟の顔をモンタージュして、「西郷どんらしい顔」を想像で作るしかなかったのです。

 

27. ペリー提督は威圧的だが実は交渉上手な紳士

黒船で来航し、大砲で日本を脅して開国させたイメージのあるペリー提督ですが、実際は非常に綿密な準備をした知的な外交官でした。日本文化を研究し、威嚇だけでなく、最新の蒸気機関車の模型や通信機をプレゼントして日本の役人を喜ばせるなど、アメとムチを使い分ける交渉術を持っていました。彼の日記には日本人の勤勉さや礼儀正しさを称賛する記述もあり、単なる侵略者ではない一面があります。

 

28. 勝海舟と西郷隆盛は酒を酌み交わす仲だった

江戸城無血開城という歴史的な偉業を成し遂げた勝海舟と西郷隆盛ですが、二人は敵対関係にありながらも、個人的には深い信頼関係で結ばれていました。交渉の場以外でも酒を酌み交わし、日本の未来について語り合う仲でした。江戸が火の海にならずに済んだのは、単なる政治的な駆け引きだけでなく、この二人の男同士の友情とリスペクトがあったからこそ実現した奇跡だったのです。

 

29. 明治天皇は1日5食の大食漢だった

明治天皇は非常に健啖家(大食漢)で、1日に5回の食事をとっていました。朝・昼・夕の三食に加え、午前と午後に「間食」という名の本格的な食事が用意されていました。肉食が解禁された文明開化の時代らしく、牛肉や鶏肉も好んで食べ、酒も強かったと言われています。激動の明治時代を生き抜き、国を率いるための強靭な体力は、この旺盛な食欲によって支えられていたのかもしれません。

 

30. 夏目漱石は飼い猫の人気に嫉妬していた

文豪・夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』は大ヒットしましたが、モデルとなった家に迷い込んだ黒猫があまりに有名になりすぎたため、漱石自身が嫉妬したという逸話があります。来客が自分よりも猫を可愛がったり、猫宛のファンレターが届いたりすることに「俺よりも猫の方が偉いのか」とぼやいていたそうです。気難しい性格で知られる漱石の、意外と子供っぽい一面が垣間見えます。

 

31. 乃木希典は「軍神」か「凡将」か評価が分かれる

日露戦争で活躍し「軍神」として崇められた乃木希典ですが、指揮官としての能力には疑問符がつくこともあります。旅順攻囲戦では旧態依然とした突撃作戦を繰り返し、多くの兵士を犠牲にしたため、見かねた児玉源太郎が指揮を代行したという話も有名です。彼が高く評価されたのは、戦術能力よりも、息子を戦死させ、明治天皇に殉死したその「武士道精神」や「人格」によるところが大きいようです。

 

32. 伊藤博文は女好きで「ホラ吹き」と呼ばれた

初代内閣総理大臣・伊藤博文は、卓越した政治家でしたが、私生活では無類の女好きとして知られていました。芸者遊びが大好きで、妻がいるにも関わらず多くの女性と関係を持ち、明治天皇から「少しは慎みたまえ」と注意されるほどでした。また、話術が巧みで大風呂敷を広げることから、あだ名は「ホラ吹き伊藤」。堅苦しい偉人のイメージとは裏腹に、欲望に忠実で人間臭い人物でした。

 

33. 最後の将軍・徳川慶喜は引退後カメラマンになった

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、大政奉還で政権を返上した後、政治の世界から完全に身を引き、趣味に没頭する悠々自適な生活を送りました。特に写真撮影に熱中し、高価なカメラを買い揃え、自ら撮影・現像を行っていました。彼が撮影した写真は雑誌に投稿されるほどの腕前で、かつての将軍が、明治の世でプロ級のアマチュアカメラマンとして余生を楽しんでいたとは驚きです。

 

34. 板垣退助は「板垣死すとも~」と叫んでいない

自由民権運動の指導者・板垣退助が暴漢に襲われた際の名言「板垣死すとも自由は死せず」。あまりに有名ですが、襲われた直後の瀕死の状態でこれを叫ぶ余裕はなかったというのが通説です。実際には、彼が倒れた後に側近や新聞記者が「板垣先生の思いを言葉にするならこうだ」と演出し、世間に広めたキャッチコピーのようなものでした。とはいえ、彼の思想がこの言葉に集約されているのは間違いありません。

 

古代・中世・その他

35. 教科書の「聖徳太子」の顔は別人だった

かつて一万円札の顔として親しまれた聖徳太子の肖像画(唐本御影)ですが、現在は「聖徳太子の死後100年以上経ってから描かれたもので、本人ではない」という説が定着しています。教科書の表記も「厩戸王(聖徳太子)」と変わるなど、実在や業績についても見直しが進んでいます。あのヒゲを蓄えた威厳ある姿は、後世の人々が「理想の太子像」として想像で描いたキャラクターだった可能性が高いのです。

 

36. 平安貴族は年に数回しかお風呂に入らなかった

雅なイメージのある平安時代の貴族ですが、衛生環境は現代と大きく異なり、お風呂(蒸し風呂)に入るのは占いで吉日とされた年に数回程度でした。そのため、体臭をごまかすために衣服に香を焚き染める「香道」が発達しました。十二単などの重厚な衣装も相まって、当時の宮中は現代人には耐え難い臭いが充満していたかもしれません。優雅さの裏には、切実なニオイ対策があったのです。

 

37. 源頼朝の死因は「落馬による体調不良」説が有力

鎌倉幕府を開いた源頼朝の死因は、長らく謎とされてきましたが、歴史書『吾妻鏡』などの記述から、相模川の橋供養の帰りに落馬し、その怪我がもとで体調を崩して亡くなったという説が有力です。糖尿病などの持病があったとも言われ、落馬が脳卒中などの引き金になった可能性もあります。武家の頂点に立った男の最期が、意外にもあっけない事故だったというのは歴史の無常を感じさせます。

 

38. 金閣寺は最初から全部が金ピカではなかった

京都の金閣寺(鹿苑寺金閣)は、現在では全体が金箔で覆われていますが、足利義満が建てた当初はデザインが異なっていたという説が有力です。最上階(3層)のみが金箔張りで、2層は金と漆の混合、1層は素木(木材そのまま)だったと言われています。それぞれの階層で建築様式が異なるため、外観もそれに合わせて変えていたのです。現在の総金箔の姿は、昭和の修復時に「より豪華に」復元された姿なのです。

 

39. 一休さんは肉も酒も楽しむ破天荒な僧侶だった

とんち話で有名な一休さん(一休宗純)ですが、史実の彼は仏教の戒律を真っ向から無視するパンクロッカーのような僧侶でした。肉を食べ、酒を飲み、女性と交際し、さらにそれを隠そうともしませんでした。これは「形式だけの仏教」を批判するための彼なりのパフォーマンスであり哲学でしたが、可愛らしい小坊主のイメージとはかけ離れた、強烈な個性を持ったアウトローだったのです。

 

40. 天草四郎はカリスマ性を持つ16歳の美少年だった

島原の乱を指導した天草四郎(天草四郎時貞)は、わずか16歳ほどの少年でした。彼はキリシタンの間で「神の使い」と信じられ、海の上を歩くなどの奇跡を起こしたという伝説が広まりました。そのカリスマ性と美貌で、過酷な年貢に苦しむ農民たちを熱狂させ、一揆の象徴となりました。幕府軍を大いに苦しめましたが、最後は原城で討ち死にし、若き英雄の生涯は幕を閉じました。

 

41. 五重塔は東京タワーより高度な耐震構造を持つ

法隆寺の五重塔など、日本の古い塔は何百年もの間、地震で倒壊した記録がほとんどありません。その秘密は「心柱(しんばしら)」と呼ばれる中心の柱が、塔の揺れを吸収・相殺する構造(柔構造)になっているからです。この伝統技術は、現代の東京スカイツリーの制振システムにも応用されています。1000年以上前の大工たちが、最新科学に通じる耐震技術をすでに完成させていたことには驚嘆しかありません。

 

42. 鉄砲は種子島以前にも日本に伝わっていた

「1543年に種子島に鉄砲伝来」と歴史で習いますが、実はそれ以前にも倭寇(海賊)などを通じて日本の一部には鉄砲が持ち込まれていたという説があります。しかし、種子島が歴史の転換点となったのは、領主の種子島時堯がその価値を見抜き、刀鍛冶に命じて「分解・研究・量産」に成功したからです。単に伝わっただけでなく、それを国産化して普及させた技術力が、日本の戦国時代を変えたのです。

 

43. 忍者の正体は農民や商人に化けた地味なスパイ

映画やアニメで見る忍者は、派手な術を使って戦いますが、実際の忍者は非常に地味な存在でした。彼らの主な任務は戦闘ではなく、敵地に潜入して情報を持ち帰ること。そのため、目立つ黒装束ではなく、農民や商人、僧侶などに変装して怪しまれないように活動していました。もし敵に見つかって戦うことになれば、それは任務失敗を意味します。「戦わずに逃げて情報を伝える」のが優秀な忍者だったのです。

 

44. 「忠臣蔵」の物語は事実と異なる創作が多い

赤穂浪士の討ち入りは史実ですが、歌舞伎やドラマの「忠臣蔵」はエンターテインメントとして多くの脚色が加えられています。例えば、大石内蔵助が敵を欺くために遊郭で遊び呆けたという有名なエピソードも、実際には京都での隠遁生活でお金がなくなり、借金に苦しんだり、単に憂さ晴らしだったりした可能性が高いです。物語としての面白さと、史実の泥臭さには大きなギャップがあります。

 

45. 鎌倉幕府の成立年は「イイクニ(1192)」ではない

かつては「イイクニ(1192年)作ろう鎌倉幕府」と覚えましたが、現在の歴史学では、源頼朝が守護・地頭の設置権を認められ、実質的な支配権を確立した「1185年」を成立年とするのが通説です。征夷大将軍に任命された1192年はあくまで形式的な完成に過ぎません。歴史の研究が進むにつれ、権力の実態がいつ移ったかが重視されるようになり、教科書の記述もアップデートされています。

 

46. 参勤交代は地方にお金を落とす経済効果があった

大名に行列を組ませて江戸と領地を往復させる「参勤交代」は、大名の財力を削ぐための制度でしたが、結果的に日本経済を活性化させました。数千人規模の行列が街道を移動するため、宿場町や飲食店は大いに潤い、道が整備され、江戸の文化が地方へ、地方の特産品が江戸へと循環しました。莫大な経費は単なる無駄遣いではなく、日本全国にお金を回す巨大な公共事業のような側面があったのです。

 

47. 三行半は簡潔な離婚届であり、妻を守る証書

江戸時代の離婚状「三行半(みくだりはん)」は、わずか3行半の短い文章で書かれたことからそう呼ばれます。これは「この女性とは縁を切るので、再婚しても構いません」という再婚許可証の意味合いが強くありました。これがないと女性は再婚できなかったため、夫がこれを書くことは義務でもありました。封建的な時代ですが、離婚後の女性の人生を保証するための合理的なシステムが機能していました。

 

48. 古墳時代の人はオシャレで歯を抜いたり削ったりした

古墳時代の人骨からは、健康な前歯を抜いたり、歯をフォークのように削って形を変えたりした痕跡が見つかっています。これを「抜歯」や「叉状研歯(さじょうけんし)」と呼びます。現代のような歯列矯正(健康のため)ではなく、成人になるための儀式や、ファッション、あるいは魔除けとしての意味があったと考えられています。痛みを伴うハードな身体加工ですが、古代人の独特な美意識が感じられます。

 

49. 歴史の常識は新発見で常に書き換わっている

私たちが学校で習った歴史は、決して固定された真実ではありません。新しい古文書が見つかったり、科学的な分析技術が進歩したりすることで、聖徳太子の実在性や鎌倉幕府の成立年、家康の死因のように、解釈は常にアップデートされています。歴史とは「現時点で最も可能性が高い仮説」の集まりであり、明日にはまた新しい発見によって、教科書の内容がガラリと変わるかもしれない面白さを持っています。

 

まとめ

歴史は年号や戦いだけじゃなく、偉人たちの意外な一面や面白い裏話を知るとぐっと身近になります。信長や秀吉、家康、政宗の人間らしいクセや江戸のユニークな習慣など、ちょっと驚きながら楽しめる物語として歴史を感じてみましょう。

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