戦国時代において「越後の龍」や「軍神」と恐れられた名将・上杉謙信。武田信玄との川中島の戦いや、敵に塩を送った義理堅いエピソードはあまりにも有名ですよね。しかし、その圧倒的な強さの裏には、歴史の教科書には載っていない人間味あふれる素顔や意外な謎がたくさん隠されているのをご存知でしょうか。
今回は、思わず誰かに話したくなる上杉謙信の面白い雑学や豆知識、気になる女性説の真相まで30個厳選してご紹介します。お酒にまつわる失敗談や知られざるラブレターの存在など、これを読めば上杉謙信という人物がもっと身近で魅力的に感じられるはずですよ。
1.生まれは長尾家の四男

「上杉謙信」という名前が広く知られていますが、最初から上杉姓を名乗っていたわけではありません。彼は越後国の守護代である「長尾為景(ながおためかげ)」の四男・長尾景虎としてこの世に生まれました。のちに幕府の要職である関東管領・上杉憲政から家督と「上杉」の姓を譲り受けたことで、上杉姓を名乗るようになったのです。さらに「謙信」という名前も、晩年に出家してからの法名にあたります。
2.幼名「虎千代」の由来

謙信の幼名は「虎千代(とらちよ)」といいます。「越後の龍」と呼ばれた彼になぜ虎の文字がついているのか不思議に思うかもしれませんが、これには生まれた干支が関係しています。実は謙信は享禄3年(1530年)の「寅年」に生まれたため、それにちなんで虎千代と名付けられたのです。大人になってからも「景虎」や「政虎」など、生涯の多くの期間で名前に「虎」の字を使い続けました。
3.生涯で70戦して無敗?

戦国最強の「軍神」と称される謙信は、生涯で約70回もの合戦に臨み、そのうち負け戦はわずか2回だけだったと語り継がれています。しかも、その数少ない敗北も自らが直接指揮を執っていない戦や撤退戦を含むため、実質的には「生涯ほぼ無敗」という驚異的な戦績を誇りました。自ら先頭に立って敵陣へ突撃する大胆さと、緻密な情報収集による軍略を兼ね備えていたからこそ成し遂げられた偉業といえますね。
4.毘沙門天の化身と信じた

謙信の軍旗といえば「毘」の一文字が染め抜かれた旗が有名ですよね。これは仏教における戦いの神様である「毘沙門天(びしゃもんてん)」を表しています。信仰心が非常に深かった謙信は、自分自身を「毘沙門天の生まれ変わり」だと固く信じて戦場に立っていました。大将自らが「我には神がついている」と迷いなく先陣を切る姿は、配下の兵士たちの士気を極限まで高め、恐れを知らぬ最強の軍団を作り上げたのです。
5.生涯独身を貫いた理由

戦国大名といえば、家の存続や政略結婚のために正室や多くの側室を持つのが当たり前の時代でした。しかし、謙信は生涯にわたって一度も妻を娶らず、実子も残さないまま独身を貫いた珍しい武将です。これは彼が毘沙門天を深く信仰し、僧侶のように「不犯(ふぼん=女性と交わらないこと)」の戒律を厳しく守っていたためとされています。跡継ぎには親族から養子を迎え入れ、自らは信仰と戦いに人生を捧げました。
6.上杉謙信「女性説」の謎

「実は上杉謙信は女性だったのではないか?」というミステリアスな説を耳にしたことがある方も多いでしょう。この説は、小説家の八切止夫氏が提唱したことで広く知られるようになりました。生涯独身だったことに加え、毎月10日ほど腹痛で戦を休んでいた記録や、女性向けの華やかな着物を好んだことなどが根拠として挙げられています。ロマンあふれる興味深い俗説として、今なお多くの歴史ファンを惹きつけています。
7.スペイン国王への報告書

謙信女性説を裏付けるもう一つのユニークな根拠として、戦国時代に日本を訪れていた宣教師ゴンザレスがスペイン国王へ宛てた報告書があります。この文書の中に、会津の上杉景勝(謙信の養子)について「彼の叔母(おば)にあたる人物の後を継いだ」という記述が残されているのです。当時のスペイン語では「叔父(tio)」と「叔母(tia)」は1文字違いのため単なる書き間違いという説もありますが、想像が膨らむエピソードですよね。
8.肖像画と実際の身長

残されている肖像画を見ると、謙信は髭を蓄えた屈強な大男のように描かれています。しかし、上杉家に伝わる鎧や衣装のサイズから推測すると、実際の身長は156cm前後と、当時の男性の平均くらいで比較的小柄だったことがわかっています。また、晩年は高血圧などの持病を抱えて少しふっくらとした体型だったともいわれており、戦場を駆け回るスリムな美青年というイメージとは少し異なる素顔があったようです。
9.無類の酒好きで酒豪

女性に対しては厳しい戒律を守ってストイックに生きた謙信ですが、実は「お酒」に関しては大の甘党ならぬ大の酒豪でした。戦の前後だけでなく日常的にもお酒を愛飲し、馬に乗りながらでも盃を傾けていたという逸話が残るほどです。しかも、豪華なごちそうを並べるのではなく、器に盛ったお味噌や梅干しだけを肴にして、ひたすら日本酒を飲み続けるという渋い飲み方を好んでいたと伝えられています。
10.二日酔いで合戦を延期

お酒にまつわる少しお茶目な失敗談も残されています。ある大事な出陣の前夜、謙信は家臣たちと戦勝祈願の酒盛りを開いたのですが、ついつい楽しくなって飲みすぎてしまいました。その結果、翌朝になってもひどい二日酔いで起き上がることができず、なんと合戦の出陣そのものを延期してしまったというのです。普段は神様のように恐れられた軍神が、二日酔いで頭を抱えていたと思うと急に親近感が湧いてきますよね。
11.おつまみは梅干し一個

謙信がお酒のお供として特に愛していたのが「梅干し」です。戦場へ出向く際も必ず梅干しを携帯しており、梅干しを1個かじっては美味しそうにお酒を何杯も飲んでいたといわれています。梅干しに含まれるクエン酸には疲労回復効果や殺菌作用があるため、激しい合戦を戦い抜く上での理にかなった栄養補給でもありました。しかし、梅干しや味噌ばかりをつまみにしていたため、塩分の摂りすぎにはつながっていたようです。
12.死因はトイレでの脳卒中

永禄から天正へと時代が移り変わった1578年、謙信は49歳という若さで急死してしまいます。その死因は、寒い冬の日にトイレ(厠)で用を足している最中に倒れた「脳卒中(脳出血)」というのが定説です。長年にわたる大量の飲酒と、梅干しや味噌といった塩分の高いおつまみばかりを食べていた食生活が、高血圧を招いたと考えられています。トイレの下に潜んでいた忍者に刺されたという暗殺説も、この突然死から生まれた創作なのです。
13.「敵に塩を送る」の真実

ことわざの「敵に塩を送る」は、海のない甲斐国の武田信玄が今川氏・北条氏から塩を止められた際、謙信が「戦は弓矢で行うものだ」と塩を送って助けた美談に由来します。ただ、近年の研究では謙信が無料で塩をプレゼントしたわけではなく、適正な価格で塩の交易(売買)を許可したというのが実態に近いとされています。それでも、経済封鎖に乗じて暴利をむさぼったりせず公正な取引を守った点は、やはり義将ならではの振る舞いです。
14.川中島の戦いは全5回

宿敵・武田信玄と激突した「川中島の戦い」は、1度の決戦ではなく、実は12年間になんと5回も繰り返されました。その中でも最も激しかったのが永禄4年(1561年)の「第四次川中島の戦い」です。この戦いで謙信は単騎で武田の本陣へ斬り込み、信玄が軍配で太刀を受け止めたという伝説の一騎打ちが語り継がれています。お互いの知略と武勇を尽くしたこの戦いは、戦国史上最大の死闘として今も語り草になっています。
15.信玄の死に涙を流した

10年以上にわたって命のやり取りを繰り広げた武田信玄ですが、謙信にとっては自分の力を試せる唯一無二の好敵手でもありました。元亀4年(1573年)、食事中に信玄の訃報を聞いた謙信は、食べていた湯漬けの箸を落として「我が 弓矢の柱を失った」と大粒の涙を流して嘆き悲しんだといいます。さらに「信玄が死んだ隙に武田を攻めましょう」と進言した家臣を厳しく叱りつけ、ライバルの死に乗じるような卑怯な真似は決してしませんでした。
16.実はビジネスと商売上手

「義」を重んじて欲がないイメージの強い謙信ですが、実は領国経営において抜群のビジネスセンスを発揮した商売上手でもありました。彼は越後特産の植物「青苧(あおそ)」から作られる高級な麻布に目をつけ、京都や大坂へ海路で輸出するネットワークを築いて莫大な利益を上げたのです。さらに佐渡の金山や越後の銀山も積極的に開発し、その圧倒的な資金力があったからこそ、何度も遠征軍を動かすことができたのでした。
17.お城から家出をして騒動

いつも威風堂々としている謙信ですが、実は27歳の頃に突然「もう武将を辞めて出家する!」と書き置きを残し、お城から家出をしたことがあります。当時、越後の家臣団の間で領地争いや内輪もめが絶えず、真面目で責任感の強い謙信はすっかり人間関係に嫌気がさして高野山へ旅立ってしまったのです。大慌てした家臣たちが必死に謝罪し、「今後は絶対に命令に従います」という誓約書を提出したことで、ようやく越後へ戻ってきてくれました。
18.字が下手で練習していた

文武両道の名将として知られる謙信ですが、若い頃は自分の「字の汚さ」にちょっとしたコンプレックスを持っていたようです。現存している直筆の手紙を見ると、余白に同じ文字を何度も繰り返し書いて練習した微笑ましい跡が見つかっています。しかし、練習を重ねた結果、晩年には力強く個性あふれる達筆へと見事に上達しました。完璧超人に見える軍神にも、地道に文字の練習をするような人間らしい一面があったのですね。
19.美少年へのラブレター

生涯女性と交わらなかった謙信ですが、戦国時代の武家社会で一般的だった「衆道(しゅどう=男性同士の恋愛)」の文化には親しんでいたようです。実は、謙信がお気に入りの美少年であった家臣・長尾景信(のちの河田長親説なども)に宛てたとされる情熱的な手紙が残されています。戦場では鬼のように強い謙信が、手紙の中では恋人に甘えるような繊細な言葉を綴っており、そのギャップには驚かされます。
20.琵琶や和歌を愛した文化人

戦場での荒々しい姿とは裏腹に、謙信は京都の公家文化を深く愛する教養人でもありました。特に和歌や連歌の才能に優れ、静かな夜には自ら琵琶(びわ)を奏でて心を落ち着かせる風流な趣味を持っていました。上洛した際には朝廷や公家たちと積極的に交流し、『源氏物語』などの古典文学にも親しんでいたといわれています。武力だけでなく、高い文化的教養を兼ね備えていたからこそ、多くの人々から尊敬を集めたのです。
21.織田信長も恐れた手取川

天下統一へ突き進んでいた織田信長ですが、上杉謙信に対しては常に低い姿勢をとり、衝突を避けようと気を使っていました。しかし天正5年(1577年)、ついに両軍は加賀国の「手取川の戦い」で激突します。この戦いで謙信は増水した手取川の地の利を活かした見事な夜襲を仕掛け、柴田勝家率いる織田軍を完膚なきまでに打ち破ったと伝えられています。もし翌年に謙信が急死していなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
22.信長から贈られた豪華な扇

織田信長が謙信のご機嫌を取るために贈ったプレゼントの中に、狩野永徳が描いた国宝『洛中洛外図屏風』と、もう一つユニークな品がありました。それが、現在も保存されている「びいどろ(ガラス)や唐物の布を使った豪華な扇(軍配)」です。信長は謙信の歓心を買うために、当時最先端の南蛮文化を取り入れた珍しい品々を惜しみなく献上していたのです。天下の信長にここまで気を遣わせたことからも、謙信の威光がいかに絶大だったかが伝わりますね。
23.刀剣コレクターの一面も

謙信は戦の実用性だけでなく、美術品としても優れた名刀を数多く収集した熱心な「刀剣コレクター」でした。彼が生涯手元から離さなかった愛刀には、のちに国宝に指定された短刀「謙信景光(けんしんかげみつ)」や「山鳥毛(さんちょうもう)」など、日本刀の最高傑作がずらりと並んでいます。しかも、ただ飾って眺めるだけでなく、刃文の美しさと実戦での斬れ味の両方を厳しく見極める確かな審美眼を持っていたといわれています。
24.兜を被らず白頭巾で突撃

戦国武将といえば立派な前立てのついた兜を被るイメージがありますが、謙信は合戦の際、鉄の兜を被らずに「白い布(行人包)」を頭に巻いた姿で戦場に現れることが多かったそうです。さらには鎧すら着けずに黒い道服姿のまま、愛馬にまたがって敵陣の真ん中へ突撃していくこともありました。「毘沙門天のご加護がある自分に矢や鉄砲の弾は当たらない」と信じていたためで、その神がかり的な姿に敵兵は戦慄したといいます。
25.銃弾が横をかすめても平然

謙信の度胸の良さを象徴する驚きのエピソードが、北条氏と戦った小田原城包囲戦での出来事です。謙信はなんと、敵が守るお城のすぐ目の前で悠々と腰を下ろし、お弁当を食べてお酒を飲み始めました。城内から何発もの火縄銃が撃ち込まれ、銃弾がすぐ横をかすめても、謙信は眉一つ動かさずに食事を続けたのです。この常人離れした胆力を見せつけられた北条軍は、恐ろしさのあまり城門から一歩も出ることができませんでした。
26.大蛇を鉄砲で撃退した伝説

越後の村々に伝わるユニークな伝説として、謙信が「大蛇」を退治したというお話があります。ある神社に巨大な白蛇が現れ、村人たちが「山の神様の化身だ」と恐れて震えていました。それを聞いた謙信は「神様に決まった形などない!」と言い放ち、ためらうことなく火縄銃を撃ち放って大蛇を追い払ってしまったのです。信仰心は誰よりも厚い一方で、人々を惑わす迷信や怪異には一切動じない合理的な思考も持ち合わせていました。
27.愛馬「放生月毛」の活躍

戦場を疾風のように駆け抜けた謙信を支えていたのが、「放生月毛(ほうしょうつきげ)」と呼ばれる白く美しい愛馬です。川中島の戦いをはじめとする数々の激戦を謙信と共に乗り越えた名馬で、大将である謙信の意図を汲み取って自在に動くほど息がぴったり合っていたと伝えられています。馬の産地としても良質な環境だった越後において、謙信は馬の育成や騎馬隊の運用にも並々ならぬ情熱を注いでいました。
28.家訓「宝在心」の名言

謙信が居城である春日山城の壁に書き残した「宝在心(たからはこころにあり)」という16行の言葉は、彼の人柄を最もよく表す名言として知られています。「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」という有名なフレーズから始まり、「何事も心掛け次第であり、自分の心の中にこそ本当の宝がある」と家臣たちを諭しました。この教えは、のちに上杉家を受け継いだ米沢藩でも大切に守られ、現代のビジネスマンにも多くの気づきを与えています。
29.遺体は甲冑姿で甕に封印

謙信が亡くなった際、跡を継いだ上杉景勝は、偉大な軍神の遺体を通常のようにお墓へ埋葬したり火葬したりしませんでした。なんと、謙信の遺体に生前と同じように甲冑を着せ、漆(うるし)を詰めた頑丈な甕(かめ)の中に納めて密封したのです。そのため、上杉家が会津、そして山形県の米沢へと領地を移されるたびに、謙信の遺体が入った甕も一緒に運ばれ、今も米沢市の上杉家廟所に大切に安置されています。
30.辞世の句に込めた人生観

謙信が生前に詠んだ辞世の句に、「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」という有名な漢詩があります。これは「49年の人生など、ひと眠りの夢のように儚いもの。この世の栄華も、たった一杯の美味しいお酒にはかなわない」という意味が込められています(享年と一致するため後世の創作説もあります)。名声や領土への執着を手放し、義と大好きなお酒を愛して駆け抜けた、いかにも謙信らしい爽やかな言葉ですね。
まとめ
今回は、戦国最強の軍神・上杉謙信にまつわる雑学や面白いエピソードを30個ご紹介しました。生涯不敗に近い圧倒的な強さや「義」を貫くストイックな生き様だけでなく、お酒を飲みすぎて二日酔いになったり、人間関係に悩んで家出をしてしまったりする人間味あふれる素顔を知ると、ますます彼の魅力に惹き込まれますよね。
ミステリアスな女性説から意外なビジネスセンスまで、上杉謙信の生き方には現代の私たちが聞いてもワクワクするようなドラマが詰まっています。ぜひ今回のお気に入りの豆知識を、歴史好きの友人や家族との会話のネタとしてシェアしてみてくださいね。
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