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葛飾北斎の雑学30選~面白いエピソードや代表作の豆知識~

葛飾北斎雑学

世界中で最も有名な日本人アーティストのひとりである「葛飾北斎」。大波と富士山を描いた浮世絵は誰もが一度は目にしたことがありますが、実は北斎自身の素顔は現代の私たちも驚くような奇想天外なエピソードであふれています。

今回は、そんな葛飾北斎の面白い私生活から、代表作『冨嶽三十六景』に隠された秘密、さらには世界に与えた影響まで、誰かに話したくなる北斎の雑学30選をわかりやすくご紹介します!

 

1.生涯で93回も引っ越した

生涯で93回も引っ越した

葛飾北斎は大の引っ越し魔として知られており、約90年の生涯でなんと93回も転居を繰り返しました。多いときには1日に3回も引っ越したことがあるほどです。その最大の理由は、絵を描くことに夢中になりすぎて部屋の掃除や片付けをまったくしなかったからだといわれています。部屋がゴミや画材で散らかり放題になると、掃除をする代わりに新しい家へ移り住んでいたというから驚きですね。

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2.名前を30回も変えている

名前を30回も変えている

引っ越しだけでなく、北斎は自分の雅号(ペンネーム)も生涯で30回ほど変更しています。「春朗」「宗理」「戴斗」「為一」など、時期によってまったく違う名前を名乗っていました。実は私たちがよく知る「葛飾北斎」という名前を使っていたのは40代後半からの数年間だけで、後に弟子にその名前を譲り渡しています。名前を頻繁に変えたため、どの作品が北斎のものか特定するのが大変な時期もありました。

 

3.「画狂老人卍」という雅号

「画狂老人卍」という雅号

30回も名前を変えた北斎ですが、75歳のときに名乗った雅号が「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」という非常にインパクトのある名前でした。「絵に狂った老人」という意味に加え、仏教の吉祥の印である「卍」を組み合わせたものです。現代の若者言葉でも使われる「卍」を江戸時代にペンネームとして使っていたなんて、時代を先取りしすぎたネーミングセンスに思わずクスッとしてしまいますね。

 

4.冨嶽三十六景は全46図

冨嶽三十六景は全46図

北斎の代表作といえば『冨嶽三十六景』ですが、実は全部で36枚ではありません。当初はタイトル通り36図で完結する予定でしたが、発売されると江戸の町で爆発的な大ヒットを記録しました。あまりの人気ぶりに版元が追加制作を依頼し、「裏富士」と呼ばれる10図が追加されて全46図になったのです。表の36図は江戸側から見た富士山、追加の10図は主に山梨や静岡側から見た富士山が描かれています。

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5.冨嶽三十六景は70歳すぎ

冨嶽三十六景は70歳すぎ

『冨嶽三十六景』が発表されたのは、北斎が72歳ごろ(数え年)から75歳にかけてのことでした。当時の江戸時代の平均寿命を考えると、70代はかなりの高齢です。しかし北斎は老いを感じさせるどころか、70歳を過ぎてから人生最大の傑作を生み出したのです。「自分の絵は70歳より前に描いたものは取るに足らない」と本人が語るほど、晩年になってからさらに画力が進化し続けました。

 

6.波の絵の正体は津波ではない

波の絵の正体は津波ではない

『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」は、海外でも「グレート・ウェーブ」と呼ばれ親しまれています。海外では長らく「ツナミ(津波)」の絵だと誤解されていましたが、近年の海洋学者たちの研究により、これは津波ではなく複数の波が重なって突発的に発生する「巨大波(フリークウェーブ)」であることがわかっています。船乗りたちの証言や実際の波のしぶきを、北斎が科学的なほど正確に観察して描いていた証拠です。

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7.驚異の動体視力と観察眼

驚異の動体視力と観察眼

「神奈川沖浪裏」の波しぶきは、現代のハイスピードカメラで撮影した水しぶきの瞬間とほぼ一致すると言われています。また『北斎漫画』に描かれた鳥が飛ぶ姿や魚が泳ぐ姿も、肉眼では捉えにくい一瞬の動きが見事に切り取られています。カメラも映像もなかった江戸時代に、まるでスローモーション映像を見ているかのような驚異の動体視力を持っていたことが、世界中の研究者やクリエイターを驚かせています。

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8.世界を魅了した北斎漫画

世界を魅了した北斎漫画

『北斎漫画』とは、北斎が弟子や絵を学びたい人のために描いた全15編の絵手本(スケッチ集)です。人物の表情やポーズ、動植物、建物、さらには妖怪や幽霊まで、森羅万象あらゆるものが合計約4000図も描かれています。現代のストーリー漫画とは異なりますが、連続した動きをユーモラスに描く表現は現代のマンガやアニメのルーツのひとつともいわれ、当時のベストセラーになりました。

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9.娘の葛飾応為も天才絵師

娘の葛飾応為も天才絵師

北斎の三女・栄(えい)も、「葛飾応為(かつしかおうい)」という名で活躍した天才浮世絵師でした。父の北斎に「美人画にかけては応為には敵わない」と言わせるほどの実力者で、特に光と影を巧みに操る「闇」の表現は西洋画のレンブラントにも例えられます。「応為」という画号は、北斎が娘をいつも「おーい!」と呼んでいたことに由来するという、親子ならではのユニークな命名エピソードが残っています。

 

10.「葛飾」は出身地の地名

「葛飾」は出身地の地名

葛飾北斎の「葛飾」は本名の苗字ではなく、出身地にちなんで自分でつけた屋号のようなものです。北斎は江戸の本所割下水(現在の東京都墨田区亀沢あたり)で生まれました。この地域が当時「武蔵国葛飾郡(むさしのくにかつしかぐん)」に属していたため、葛飾を名乗ったのです。現在の葛飾区ではなく墨田区あたりがゆかりの地であり、墨田区には「すみだ北斎美術館」も建てられています。

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11.兄弟子と喧嘩して破門された

兄弟子と喧嘩して破門された

19歳で当時の人気浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)に入門した北斎は、「勝川春朗」の名で活動していました。しかし師匠の春章が亡くなった後、勝川派を離れることになります。その理由は、他流派である狩野派の画風をこっそり学んだことや、自分の描いた看板絵を兄弟子に目の前で破り捨てられたことに激怒したためと伝えられています。この屈辱がバネとなり、北斎は独自の画風を切り開いていきました。

 

12.生涯で約3万点も描いた

生涯で約3万点も描いた

北斎は10代で画壇にデビューしてから90歳で亡くなるまでの約70年間、休むことなく絵を描き続けました。残された作品数は、浮世絵版画や肉筆画、小説の挿絵や絵手本などを合わせると、生涯でなんと約3万点以上にものぼるといわれています。単純計算でも1日に1点以上のペースで緻密な作品を仕上げていたことになり、まさに寝食を忘れて絵に没頭した人生だったことがわかります。

 

13.大ヒットを生んだ「ベロ藍」

大ヒットを生んだ「ベロ藍」

『冨嶽三十六景』が人々の心を掴んだ大きな理由のひとつが、鮮やかで深みのある青色でした。これは「ベロ藍(ベルリン・ブルー/プルシアンブルー)」と呼ばれる、ヨーロッパから輸入された化学合成顔料です。従来の植物由来の藍色は退色しやすかったのですが、発色が良く色褪せない新素材のベロ藍を大胆に取り入れたことで、空や海の圧倒的な奥行きを表現することに成功したのです。

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14.120畳の大だるまを描いた

120畳の大だるまを描いた

北斎はただ絵が上手いだけでなく、人々を驚かせるイベントの達人でもありました。58歳のときには名古屋の西掛所(本願寺名古屋別院)の境内で、畳120畳分もの巨大な和紙に「大だるま」を描く公開パフォーマンスを行っています。巨大な筆やほうきを使い、大勢の観客が見守るなかで巨大なだるまを一気に描き上げ、滑車で空中に吊り上げて見せたことで、町中の話題をさらいました。

 

15.米粒に雀を2羽描いた

米粒に雀を2羽描いた

巨大な絵を描く一方で、北斎は信じられないほどミクロな絵を描くパフォーマンスも披露しています。大だるまのパフォーマンスの後に、今度はたった1粒の米粒の表面に「2羽の雀(すずめ)」を極めて繊細に描き出し、肉眼では見えないほどの神業で人々を驚かせました。特大スケールから極小スケールまで自在に描き分ける技術とサービス精神を持っていたからこそ、江戸の庶民に広く愛されたのです。

 

16.将軍の前で鶏の足跡アート

将軍の前で鶏の足跡アート

第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の前で絵を描く御前試合に招かれた際、北斎はあっと驚く手法を使いました。まず紙に青い絵の具で川の流れを描くと、持参した鶏の足に赤い絵の具をつけ、その紙の上を歩かせたのです。そして鶏の赤い足跡を「竜田川に散る紅葉」に見立てて即興アートを完成させたといわれています。権力者の前でも物怖じしない北斎のユーモアと度胸が伝わる逸話です。

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17.定規とコンパスで描く入門書

定規とコンパスで描く入門書

『略画早指南(りゃくがはやしなん)』という絵の入門書で、北斎は「世の中のすべての形は、丸と四角(円と直線)の組み合わせで描ける」と解説しています。つまり、コンパスと定規さえあれば誰でも簡単に絵が描けるという画期的な技法を江戸時代に提唱していたのです。現代のイラストの描き方教本やデジタルデザインの基礎にも通じる考え方を、200年以上前にわかりやすく図解していました。

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18.ゴッホやモネが北斎を大絶賛

ゴッホやモネが北斎を大絶賛

19世紀後半、ヨーロッパで巻き起こった日本美術ブーム「ジャポニスム」の中心にあったのが北斎の作品でした。印象派の巨匠モネは北斎の浮世絵を自宅に数多く飾り、ゴッホも弟テオへの手紙のなかで「神奈川沖浪裏」の波の迫力を熱烈に称賛しています。西洋の伝統的な遠近法や構図の常識を打ち破る北斎の大胆な表現は、近代西洋絵画の歴史を大きく変えるきっかけとなりました。

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19.梱包材の紙から世界に広まった

梱包材の紙から世界に広まった

『北斎漫画』がヨーロッパの芸術家たちに知られるようになったきっかけには、有名な言い伝えがあります。日本からヨーロッパへ陶磁器を輸出する際、器が割れないように包む緩衝材(詰め紙)として古紙となった『北斎漫画』が使われており、包み紙を広げたフランスの版画家ブラックモンがそのデッサン力に衝撃を受けたというお話です。現在では複数の経路で伝わったとされていますが、夢のあるエピソードですね。

 

20.ドビュッシーの交響詩『海』

ドビュッシーの交響詩『海』

北斎が影響を与えたのは画家だけではありません。フランスの有名な作曲家クロード・ドビュッシーも北斎の大ファンで、自分の書斎に「神奈川沖浪裏」を飾って創作のインスピレーションを得ていました。彼の代表曲である管弦楽曲『海』の初版スコア(楽譜)の表紙には、ドビュッシー自身の希望によって北斎の「神奈川沖浪裏」の波がデザインとして採用されているほどです。

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21.世界の100人に唯一の日本人

世界の100人に唯一の日本人

1999年、アメリカの有名誌『ライフ(LIFE)』が「この1000年間で最も重要な功績を残した世界の人物100人」という特集を組みました。エジソンやガリレオ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど歴史上の偉人が並ぶなか、日本人としてただひとり選ばれたのが葛飾北斎でした。政治家や科学者ではなく、一人の浮世絵師が世界の文化に最も大きな影響を与えた日本人として認められたのです。

 

22.新千円札とパスポートに採用

新千円札とパスポートに採用

北斎の代表作は、現代の日本の「顔」としても活躍しています。2020年から発給が始まった日本のパスポート(旅券)の査証ページには、偽造防止と日本文化の発信を兼ねて『冨嶽三十六景』の24作品が全ページ異なる絵柄で印刷されています。さらに2024年7月に発行された新千円札の裏面にも「神奈川沖浪裏」が採用され、私たちの暮らしのなかで毎日目にするデザインとなりました。

 

23.「お菊さん」や「こはだ小平治」

「お菊さん」や「こはだ小平治」

北斎は風景画だけでなく、怖い怪談を描いた「幽霊画」の名手でもありました。1831年ごろに発表された『百物語』シリーズでは、皿屋敷の「お菊さん」が井戸からろくろ首のように皿を連ねて現れる姿や、骸骨の姿で蚊帳をのぞき込む「こはだ小平治」などを描いています。おどろおどろしさの中にもどこかユーモアや色彩の美しさが漂う独特の妖怪・幽霊画は、今見ても強烈なインパクトがあります。

 

24.実はかなり貧乏だった理由

実はかなり貧乏だった理由

現代では数千万円から数億円の値がつくこともある北斎の作品ですが、生前の北斎自身はいつもお金に困り、貧乏な暮らしをしていました。作品が大ヒットして多額の画料が入ってきても、北斎はお金にまったく執着がなく、封も開けずに放置したり、困っている人にそのまま渡してしまったりしたのです。さらに孫の借金の尻拭いや自宅の火事なども重なり、晩年まで質素な長屋暮らしを続けていました。

 

25.こたつで描き続けた無精者

こたつで描き続けた無精者

掃除嫌いで有名だった北斎は、冬になるとこたつに入ったまま絵を描き、そのままこたつの中で寝起きしていたと伝えられています。食事も自分で作ることはなく、出前のそばや寿司、大福餅などを買ってきて済ませていました。生活のすべてを削ぎ落として「絵を描く時間」だけにつぎ込んでいたため、娘の応為も父と同じように家事をせず、親子ふたりで絵筆を握り続けていたそうです。

 

26.酒もタバコもやらない健康法

酒もタバコもやらない健康法

不摂生な生活を送っていたように見える北斎ですが、実は90歳(満88歳)という当時としては驚異的な長寿を全うしました。その秘訣は、当時としては珍しく「お酒を一滴も飲まず、タバコも吸わなかったこと」にあります。甘いお菓子は大好きでしたが、晩年には自作の薬(龍眼肉と焼酎などを混ぜた養生薬)を飲むなど健康に気を遣っていた記録も残っており、少しでも長く絵を描き続けたいという執念が長寿を支えていました。

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27.落雷に遭ってからさらに開花

落雷に遭ってからさらに開花

北斎が50歳ごろのとき、旅先の千葉県(下総国)を歩いていた際に激しい雷雨に遭遇し、すぐ近くに落雷して一時的に気を失うという九死に一生の体験をしました。不思議なことに、この落雷体験を境にして北斎の創作意欲と画力はさらに凄みを増したといわれています。「雷神に命を救われた」と感じたのか、北斎は後に「雷斗(らいと)」や「画狂人」などの画号を名乗るようになりました。

 

28.水星のクレーターに名前がある

水星のクレーターに名前がある

北斎の名前は、なんと地球を飛び出して宇宙にまで刻まれています。太陽系で最も内側を回る惑星「水星」には、世界中の偉大な芸術家や音楽家の名前がつけられたクレーターがいくつも存在します。そのひとつとして、2010年に水星北部の巨大な放射状クレーターが「ホクサイ(Hokusai)」と正式に命名されました。江戸の絵師の名前が宇宙の星にまで残っているなんてロマンがありますね。

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29.最期の言葉は「あと5年あれば」

最期の言葉は「あと5年あれば」

90歳で亡くなる直前、病床の北斎は「天が私にあと10年、いや、あと5年の命を与えてくれたら、本物の絵描きになれるのに」という言葉を残して息を引き取りました。すでに3万点もの作品を描き、歴史に残る大傑作を生み出していながら、死の瞬間まで「自分はまだ発展途上でもっと上手くなれる」と本気で信じていたのです。この飽くなき向上心こそが、天才・葛飾北斎の最大の秘密なのかもしれません。

 

30.辞世の句に込めた絵への情熱

辞世の句に込めた絵への情熱

臨終の際、北斎は「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原(ひとだまで ゆくきさんじや なつのはら)」という辞世の句を詠みました。これは「死んで魂だけになったら、夏の原っぱへ気晴らしにふらりと遊びに行こう」という意味です。最期の瞬間まで悲壮感はなく、自由気ままに自然の中を飛び回るような北斎らしいユーモアが込められており、波乱万丈で痛快な90年の生涯を象徴する一句となっています。

 

まとめ

葛飾北斎の雑学30選をご紹介しましたが、いかがでしたか?93回の引っ越しや30回の改名など、私生活はかなり破天荒でありながら、「もっと絵が上手くなりたい」という純粋でまっすぐな情熱を90歳まで持ち続けた魅力的な人物でしたね。

新千円札やパスポートなどで北斎の絵を目にしたときは、ぜひ今回ご紹介した面白いエピソードや作品に隠された秘密を思い出して、家族や友人にシェアしてみてください!

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