※本記事は広告を含みます。掲載画像はAI生成または商品イメージです。実物と異なる場合があります。 教養・学び

西郷隆盛の雑学30選~最後のサムライ、意外すぎる素顔~

西郷隆盛雑学

明治維新の立役者であり、NHK大河ドラマ『西郷どん』でもおなじみの西郷隆盛。上野の銅像や「敬天愛人」の言葉で知られる彼は、豪快なイメージとは裏腹に、とても繊細で人間味あふれる人物でした。今回は、そんな西郷隆盛の知られざる素顔や、思わず誰かに話したくなるエピソードを30個厳選してご紹介します。歴史の教科書には載っていない、愛すべき「西郷どん」の魅力に触れてみてくださいね。

 

1.銅像の顔は別人だった?

東京・上野公園にある有名な西郷さんの銅像。実は、除幕式に招かれた妻のイトさんは、その姿を見て「宿んし(うちの主人)はこげな人じゃなか!」と驚いたといわれています。実際の西郷隆盛はもっと目に特徴があり、浴衣姿で人前に出るようなラフな格好もしなかったとか。あの銅像は、あくまで「イメージの中の西郷さん」なのかもしれませんね。

 

2.本名は「隆盛」じゃない

私たちが知っている「隆盛」という名前、実は父親の名前なんです。彼自身の本名は「隆永(たかなが)」でした。明治新政府で位階を授かる際、友人がうっかり父親の名前で登録してしまい、訂正するのも面倒だということで、そのまま「隆盛」を使うようになったそうです。なんとも豪快でおおらかなエピソードですね。

 

3.異常なほどの愛犬家

西郷さんは無類の犬好きとして知られています。特に有名な愛犬「ツン」をはじめ、生涯で何匹もの猟犬を飼っていました。鰻丼を自分で食べるのではなく、愛犬に食べさせていたという逸話まで残っています。上野の銅像も犬を連れていますが、あれは彼の「犬好き」を象徴する大切なパートナーなのです。

 

4.写真は一枚もない謎

幕末の志士たちの多くが写真を残していますが、西郷隆盛の写真は一枚も現存していません。極度の写真嫌いだったと言われています。「写真を撮られると魂を抜かれる」と信じていた説や、顔が割れて暗殺されるのを防ぐためという説も。現在知られている肖像画は、弟の西郷従道と従兄弟の顔を合成して描かれたものなのです。

 

5.規格外の巨漢ボディ

当時の日本人男性の平均身長が155cm程度だった時代に、西郷さんは身長約180cm、体重110kg超という巨体でした。その大きさは圧倒的で、相撲取りと間違われることもあったとか。その大きな体から放たれるオーラと包容力が、多くの人を惹きつけた要因の一つだったのは間違いないでしょう。

 

6.必死のダイエット作戦

巨漢であるがゆえに肥満に悩み、晩年はドイツ人医師から厳しくダイエットを命じられていました。食事制限に加え、下剤を飲んで運動療法として「ウサギ狩り」を行っていたそうです。しかし、狩りの後にお腹が空いて甘いものや脂っこいものを食べてしまい、なかなか痩せられなかったという、親近感の湧くエピソードもあります。

 

7.二度の島流しを経験

西郷さんの人生は順風満帆ではありませんでした。藩主の逆鱗に触れるなどして、奄美大島と沖永良部島へ、二度も流罪になっています。特に沖永良部島での生活は過酷で、吹きっさらしの牢獄に入れられ死を覚悟しました。しかし、この極限状態での読書と思索が、彼の精神をより強靭なものへと高めたのです。

 

8.月照との心中未遂事件

安政の大獄で幕府から追われる身となった西郷さんは、僧侶の月照と共に錦江湾へ入水自殺を図りました。しかし、運命のいたずらか、西郷さんだけが蘇生してしまいます。盟友を失い自分だけ生き残った罪悪感は深く、その後の「死に場所を求める」ような生き方に大きな影響を与えたと言われています。

 

9.波乱万丈な結婚生活

西郷さんは生涯で3度結婚しています。最初の妻とは貧困などが原因で離縁、2人目は奄美大島の愛加那(あいかな)、そして3人目が最後の妻となるイトです。家族を大切にする彼でしたが、革命家としての激動の人生が、平穏な家庭生活を難しくしていたのかもしれません。それでも家族仲は良く、良き父であり夫でした。

 

10.江戸無血開城の立役者

戊辰戦争のクライマックス、江戸総攻撃の直前に勝海舟との会談が行われました。これにより、100万都市・江戸が火の海になることが回避されました。これは西郷さんが勝海舟を深く信頼し、彼の言葉に耳を傾けたからこそ実現した奇跡です。武力だけでなく、話し合いで平和的解決を選んだ彼の英断は、後世まで語り継がれています。

 

11.給料はほぼ他人に譲る

明治政府の高官となり高い給料をもらってからも、西郷さんの家計は火の車でした。なぜなら、困っている元部下や書生たちにお金を分け与えていたからです。自宅には常にお金がなく、質素な生活を続けていました。私利私欲のなさが、彼のカリスマ性を高めていたのでしょう。

 

12.大好物は豚骨料理

ダイエット中もやめられなかったほどの大好物が、鹿児島名物の「豚骨」や甘いお菓子でした。豚骨とは、豚の骨付きあばら肉を味噌や黒糖、焼酎で煮込んだ料理です。脂っこくて味の濃い料理が大好きだったため、肥満に拍車をかけてしまったようです。甘党で酒は下戸だったとも言われています。

 

13.実はかなりの涙もろさ

豪傑なイメージとは裏腹に、西郷さんは非常に涙もろい性格でした。人の不幸話を聞くと、自分のことのようにボロボロと涙を流して悲しんだといいます。この「情の深さ」こそが、多くの部下が彼のために命を捨てても構わないと思わせた最大の理由かもしれません。

 

14.龍馬が評した「大鐘」

坂本龍馬は初めて西郷に会った時の印象を、「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く鐘のような男」と評しました。つかみどころがないけれど、相手の度量次第でいくらでも大きな反応を返す、西郷隆盛の器の大きさを実に見事に表現した言葉です。

 

15.大久保利通との関係

西郷隆盛と大久保利通は、同じ町内で育った幼馴染であり、明治維新を成し遂げた盟友でした。しかし、最後は政治的対立から敵味方に分かれて戦うことになります。西南戦争で西郷が死んだと聞いた時、冷徹と言われた大久保が「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる」と号泣し、頭を壁に打ち付けたという悲しい逸話が残っています。

 

16.人知れぬ持病の悩み

西郷さんは「フィラリア」という寄生虫が原因の「象皮病」による陰嚢水腫(いんのうすいしゅ)という持病を抱えていました。これにより、馬に乗ると股擦れを起こして激痛が走るため、移動はもっぱら徒歩や駕籠(かご)でした。晩年の彼が馬に乗っている銅像や絵画は、実はフィクションの姿なのです。

 

17.根っからの温泉好き

西郷さんは大の温泉好きでもありました。特に鹿児島県の日当山(ひなたやま)温泉などを頻繁に訪れています。これは単なる趣味だけでなく、持病の治療やダイエット、そして心身の保養を兼ねていました。山奥の温泉で、愛犬とともにのんびり過ごす時間が、彼にとって至福の時だったのでしょう。

 

18.征韓論の本当の狙い

西郷さんが政府を去る原因となった「征韓論」。一般には「武力で韓国を開国させる」案と思われがちですが、最近の研究では、西郷自身は「自分が丸腰の使節として行き、対話で解決する(もし殺されたらそれが開戦の理由になる)」と主張していたとされています。あくまで平和的解決、あるいは自らの犠牲を第一に考えていたのです。

 

19.西南戦争と最後の言葉

日本最後の内戦となった西南戦争。政府軍に追い詰められ、城山で最後を迎える時、西郷さんは被弾し、別府晋介に介錯を頼みました。その最期の言葉は「晋どん、もうここでよか」だったと伝えられています。全てを受け入れ、潔く散っていった彼の姿は、まさに最後のサムライでした。

 

20.死後に流れた生存説

西郷さんの死後、庶民の間では「実は生きている」という生存説がまことしやかに囁かれました。「ロシアに逃れて皇太子と一緒に帰ってくる」といった噂が広まり、火星が大接近した際には、赤く輝く星を見て「あれは西郷星だ」と崇められました。それほどまでに、民衆は彼の死を受け入れられなかったのです。

 

21.敵となった弟・従道

西郷さんの弟、西郷従道(つぐみち)は、兄とは道を分かち、明治政府側に残りました。西南戦争では、実の兄を討つ側の立場になったのです。従道にとってこれほど辛いことはありませんでしたが、彼は兄の代わりに国家のために尽くすことを選びました。兄弟で敵味方になる、悲劇の時代でした。

 

22.独特なウサギ狩り

西郷さんのウサギ狩りは独特で、鉄砲を使わず、犬を使って追い詰め、棒で叩くというスタイルでした。これは運動量を増やすダイエット目的もあったようですが、鉄砲の腕前があまり良くなかったという説もあります。野山を駆け回る姿は、地元の人々にとっても親しみ深い光景でした。

 

23.座右の銘「敬天愛人」

西郷隆盛の思想を一言で表す言葉が「敬天愛人(けいてんあいじん)」です。「天を敬い、人を愛する」という意味で、道徳的で正しい行いをし、自分を愛するように他人も愛するという教えです。彼が設立した私学校でもこの精神が重視され、現在でも多くの企業の経営理念や座右の銘として引用されています。

 

24.偉くなってもボロ着

陸軍大将という高い地位に就いても、西郷さんは正装を嫌い、普段は木綿の着物によれよれの兵児帯という格好でした。ある時、あまりにボロボロの格好で役所に行ったため、守衛に浮浪者と間違えられて追い返されそうになったという笑い話もあります。見栄を張らない飾らない性格がよく表れています。

 

25.意外とマメな筆まめ

豪快な武人のイメージがありますが、西郷さんは非常に筆まめで、多くの手紙が現存しています。家族や友人、同志に宛てた手紙は、政治的な内容から日常の些細な報告まで様々。その文面からは、相手を気遣う細やかな心遣いが読み取れ、彼の知性と優しさを今に伝えています。

 

26.奄美の妻・愛加那

島流し中に結婚した島の娘、愛加那(あいかな)。彼女は「島妻(アンゴ)」という立場でしたが、二人の間には深い愛情がありました。西郷さんが島を去る際、彼女を連れて行くことは許されず、二人は涙ながらに別れました。愛加那はその後も西郷を想い続け、再婚することなく一生を終えたといいます。

 

27.明治天皇との絆

西郷さんは若い明治天皇から絶大な信頼を寄せられていました。教育係のような役割も果たし、時には相撲の相手をして手加減なしに投げ飛ばしたこともあったとか。天皇は西郷の死を深く悲しみ、後に「西郷を殺したのは惜しいことをした」と漏らしたと伝えられています。

 

28.写真嫌いの本当の理由

彼が写真を嫌った理由の一つに、「君主(天皇)より自分の顔が世に出回るのは不敬だ」という考えがあったという説があります。明治天皇の御真影(写真)がまだ普及していない時期に、家臣である自分の写真が広まることを良しとしなかった。ここにも彼の深い忠誠心が見え隠れします。

 

29.借金だらけの家計事情

西郷さんが亡くなった時、家には多額の借金が残っていました。これは遊興費などではなく、すべて他人への援助や私学校の運営費によるものでした。自分のためには一切使わず、他人のために借金までしてしまう。そんな「無私」の生き方が、現代人が彼に惹かれる理由なのかもしれません。

 

30.永遠のヒーロー西郷どん

賊軍の将として亡くなったにもかかわらず、西郷隆盛の名誉回復は早く、死後わずか12年で大赦されました。これは異例のことです。時代を超えて、敵味方関係なく愛された西郷さん。その魅力は、能力の高さだけでなく、「損得勘定抜きで人のために動く」という高潔な人間性にあるのでしょう。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。西郷隆盛という人物は、単なる「強い武士」ではなく、犬を愛し、温泉を愛し、そして何よりも人を愛した、とても人間味あふれる巨人でした。完璧ではないけれど、誰よりも純粋だったその生き様を知ると、上野の銅像を見る目も少し変わってきそうですね。ぜひ今度、この話を誰かにシェアしてみてください。

-教養・学び