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飛行機の雑学12選~日本の歴史や人物・面白い豆知識~

飛行機雑学

飛行機といえば、旅行や出張で気軽に乗る身近な乗り物ですよね。でも、日本の空を初めて飛び始めたころは、飛ぶ姿を見に出かけるだけでも大イベントでした。当時の新聞に載った機体や、空の未来を描いたユニークな挿絵には、新しい乗り物に心を躍らせた人々のワクワクした気持ちがたくさん残っています。

今回は、日本の初期の飛行機と、それを取り巻く暮らしの面白い豆知識を当時の写真や絵とともにご紹介します。開発の苦労から遊び、仕事、さらには驚きの結婚式まで、空への憧れが地上の生活をどう変えていったのか、懐かしい資料をのぞいてみましょう。

※明治後期から昭和初期の事例を紹介します。構想図や未来の挿絵は、実際に飛行した機体や実現した生活の記録とは区別しています。

 

1.結婚式は飛行機の中

飛行機内で行われた結婚式の三々九度を伝える1931年の新聞写真

写真に写る三々九度の会場は、なんと空を飛ぶ機内です。1931年4月12日、立川飛行場から飛び立った新郎新婦は、明治神宮の上空で結婚の杯を交わしました。新郎が一風変わった方法で式を挙げたいと考え、長岡外史に相談したことから実現した、日本初とされる機上結婚式です。台場や玉川の空も巡って立川へ帰着したあと、友人や知人が待つ飛行場の天幕の中で華やかに披露宴が開かれました。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第3章/『朝日新聞』1931年4月13日掲載写真・機上結婚式の解説

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2.最初の飛行は4分間

徳川好敏と日野熊蔵の国内動力飛行を報じた1910年12月20日の新聞記事「飛行界レコード成る」

日本人による国内初の公式な動力飛行が行われたのは、1910年12月19日のことです。この記念すべき日に、徳川好敏が東京の代々木練兵場で約3キロの距離を飛行し、最高高度70メートルを記録しました。空にいた時間はわずか4分間でしたが、同じ日の午後には日野熊蔵もドイツ製の機体で成功を収めています。翌日の新聞に躍った「飛行界レコード成る」という大きな見出しから、当時の熱狂ぶりが伝わってきますね。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第1章/『毎日新聞[東京]』1910年12月20日「飛行界レコード成る」・初飛行の解説

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3.開発費は自分持ち

『空中文明博覧会写真帖』に掲載された飛行機開発者・奈良原三次の肖像写真

写真の奈良原三次は、軍を辞めて私財を投じ、自らの手で機体づくりに取り組んだ熱意ある人物です。1911年5月5日には、開発した奈良原式2号が所沢で高度約4メートル、距離約66メートルを飛び、国産民間機の初飛行に成功しました。しかしその道のりは険しく、助手の伊藤音次郎は、エンジンの調節が難しく浮いては落ちて脚を壊したころを「ブウ・ガチャン」の時代と回想しています。ただ飛ぶことと、壊さずに飛び続けることは別の難題だったのです。

画像:Wikimedia Commons/奈良原三次の肖像、渡部一英編『空中文明博覧会写真帖』(帝国飛行発行所、1918年)(パブリックドメイン)。参考:国立国会図書館「本の万華鏡」第1章/奈良原式2号と開発の解説

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4.巡回ならぬ「巡空」

1920年の雑誌特集に描かれた、空中警察が巡空する未来の挿絵

飛行機が当たり前になった未来では、警察官も空をパトロールするようになるのでしょうか。1920年の雑誌『日本及日本人』で組まれた特集「百年後の日本はどうなるか」では、著名人250人に未来の姿を尋ねており、空の上から街を取り締まる「空中警察」の挿絵が掲載されました。ほかにも気軽に乗れる1人乗り機や600人乗りの大型機、空中市場といったユニークな予想も登場し、空の時代への豊かな想像力を絵として楽しむことができます。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第3章/『日本及日本人』第780号「百年後の日本はどうなるか」(1920年)・航空の未来予想図

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5.空の郵便が汽車へ

1919年の郵便飛行競技大会を報じる新聞記事「日本で初めての郵便飛行成功す」

初期の航空郵便には、途中で陸の乗り物へとバトンタッチした珍しいケースがありました。1919年10月22日、帝国飛行協会の懸賞郵便飛行競技大会で3人の飛行家が東京―大阪間の往復に挑み、山懸豊太郎と佐藤章は見事に成功します。一方、水田嘉藤太は往路で不時着して失格となりましたが、積んでいた郵便物は放置されず翌23日に鉄道で大阪へ運ばれました。華々しい成功ニュースの陰には、飛行機だけでは完結しなかった配達のドラマもあったのですね。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第2章/『朝日新聞』1919年10月23日「日本で初めての郵便飛行成功す」・郵便飛行の解説

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6.映画が進路を変えた

1936年刊『思ひ出』に掲載された民間飛行家・伊藤音次郎の肖像写真

のちに日本の民間航空を支えることになる青年が飛行家を志したきっかけは、実物の機体ではなくスクリーンの中の映像でした。写真の伊藤音次郎は、1908年にライト・フライヤーが飛ぶ活動写真を見て航空の道へ進みました。その後は自ら操縦技術を身につけただけでなく、操縦者の養成と機体製作を行う「伊藤飛行機研究所」を設立しています。映画に憧れて見上げていた青年が、やがて日本の空を飛ぶ人たちを育てる立場になったのです。

画像:Wikimedia Commons/伊藤音次郎の肖像、太田喜八郎著『思ひ出』(1936年)、撮影者不明(パブリックドメイン)。参考:日本航空協会「伊藤音次郎日記」解説

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7.ペダルで空を目指す

二宮忠八の飛行器構想を紹介した1920年の雑誌記事「純日本式の飛行機」

日本の初期の航空研究には、人間の力で羽ばたこうとするユニークなアイデアもありました。二宮忠八が1894年に提出した「軍用飛行器考案之儀ニ付上申」の完成予定図には、自転車のように足でこいで進む人力飛行機の姿が描かれています。もっとも、二宮自身はより強力な動力としてエンジンの搭載も視野に入れていたようです。画像は1920年の雑誌『帝国飛行』がその研究を紹介したもので、空へ進む方法を懸命に模索していた時代の熱気が伝わってきます。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第1章/『帝国飛行』第5巻4号「純日本式の飛行機」(1920年)・二宮忠八の解説

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8.競馬場が飛行の舞台

1914年に阪神鳴尾競馬場で開催された帝国飛行協会主催の民間飛行大会の記録写真

初期の飛行大会は、必ずしも専用の広い滑走路だけで開かれていたわけではありません。1914年6月13・14日に帝国飛行協会が初めて主催した民間飛行大会では、兵庫県の阪神鳴尾競馬場が離着陸の会場として使われました。明治から大正にかけて、飛行機は一般の人にとって「乗るもの」ではなく「見物するスター」であり、会場には多くの観客が詰めかけました。身近な娯楽の場だった場所も、当時は空への憧れを楽しむ特別なステージになっていたのです。

画像:Wikimedia Commons/鳴尾の民間飛行大会、渡部一英編『空中文明博覧会写真帖』(帝国飛行発行所、1918年)(パブリックドメイン)。参考:日本航空協会「沿革」、国立国会図書館「本の万華鏡」第3章/飛行機見物の解説

 

9.新聞社が世界一周

世界一周飛行に出発するニッポン号を掲載した『ニッポン世界一周大飛行』の写真

1939年に見事な長距離飛行を成し遂げた「ニッポン号」は、8月26日に羽田を出発して10月20日に帰還しました。この歴史的な大飛行を企画したのは航空会社ではなく、大阪毎日新聞と東京日日新聞の2社だったのです。当時のメディアが長距離飛行に力を入れた背景には、取材ニュースをいち早く運ぶ実用目的に加え、自社の知名度や購読部数を大きく伸ばしたいという狙いもありました。空の冒険は、ニュースを届ける会社にとって最大の宣伝イベントでもあったのですね。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第2章/『ニッポン世界一周大飛行』(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社編、1940年)・新聞社の長距離飛行の解説

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10.すごろくも天候次第

所沢と大阪を往復する1916年の飛行機すごろく「長距離飛行遊戯」

1916年の正月の新聞付録に登場した飛行機すごろく「長距離飛行遊戯」は、ただの数字ではなく空模様によって運命が左右される仕組みでした。サイコロに当たる「飛行珠」の6つの面には、「日本晴・はれ・雨・霧・突風・故障」が記されており、日本晴なら4マス進み、突風なら1マス戻り、故障が出ると1回休みになります。所沢と大阪を往復する盤上には悪気流で後戻りするマスもあり、当時のリアルな飛行事情が遊びの中にうまく取り入れられています。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第3章/『大阪朝日新聞』1916年1月1日「図案と手工練習の応用 長距離飛行遊戯」・双六の解説

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11.東京―大阪は30円

『日本航空輸送株式会社十年史』に掲載された、開業後10年間の航空路の発展を示す図

1929年4月に郵便・貨物輸送を始めた日本航空輸送株式会社は、同年7月15日から一般の乗客を乗せる定期旅客輸送をスタートさせました。開業当時の運賃は東京―大阪間が30円、大阪―福岡間は35円に設定されていました。物価や給与水準が違うため今の金額にそのまま置き換えることはできませんが、見物するだけだった飛行機が「運賃を払って移動に使うサービス」へと変わった、日本の交通史における大きな節目といえます。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第2章/『日本航空輸送株式会社十年史』(日本航空輸送株式会社編、1938年)・定期旅客輸送の解説

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12.機内で紅茶をどうぞ

1931年の新聞に掲載されたエア・ガールの初サービスの写真

現在ではおなじみの客室乗務員による機内サービスですが、日本の初期には驚くほどコンパクトな機体で行われていました。1931年4月、羽田―下田―清水を結ぶ東京航空輸送会社は、わずか4人乗りの小型機に「エア・ガール」を搭乗させたのです。空の上で乗客に軽食や温かい飲み物を振る舞うおもてなしは大きな話題と人気を集めました。この試みは1年でいったん終了したものの、1937年には日本航空輸送株式会社で本格的に復活し、現在の空の旅へとつながっていきました。

画像・参考:出典:国立国会図書館「本の万華鏡」第2章/『朝日新聞』1931年4月2日掲載写真・エア・ガールの解説

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まとめ

日本の初期の飛行機の歴史を振り返ってみると、機体の性能や飛行記録だけでなく、人々の豊かなドラマが詰まっていることに気づかされます。映画を見て進路を決めた青年や、競馬場で空を見上げる観客、天候に左右されるすごろくで遊ぶ子どもたちなど、新しい乗り物を自分の暮らしへ引き寄せる多彩な楽しみ方がそこにはありました。

当時の写真や挿絵を眺めると、飛ぶための真剣な試行錯誤と、「空の上でこんなことをしてみたい」という自由な想像が同時に広がっていたことがよくわかります。次に飛行機の中で飲み物を受け取ったときには、小さな4人乗りの機体で紅茶を出していた時代をぜひ思い出してみてください。ご家族や友人にもこの豆知識をシェアすると、いつもの空の旅に少し違った景色が見えてくるかもしれませんね。

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