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坂本龍馬の雑学30選~日本の夜明けを呼んだ男~

坂本龍馬雑学

幕末の英雄として、今なお絶大な人気を誇る坂本龍馬。ドラマや小説で描かれる颯爽とした姿に憧れる方も多いのではないでしょうか? しかし、彼の魅力は歴史的な偉業だけではありません。実は、人間味あふれる「意外な一面」や、思わずクスッとしてしまうようなエピソードがたくさん隠されているんです。今回は、知れば知るほど好きになる、坂本龍馬の雑学を30個厳選してお届けします。明日誰かに話したくなること間違いなしですよ!

 

1.日本初の新婚旅行

今では当たり前の「ハネムーン」ですが、日本で最初に行ったのは龍馬だと言われています。寺田屋事件で負った傷を癒やすため、妻のお龍を連れて薩摩(鹿児島県)へ旅に出ました。二人は温泉に入ったり、霧島山に登ったりと、激動の時代を忘れるような甘い時間を過ごしたそうです。姉への手紙には、山頂にある「天の逆鉾」を引き抜いて遊んだことなどが楽しげに綴られており、彼の愛妻家な一面がうかがえます。

 

2.実は高身長だった

江戸時代の成人男性の平均身長は155cm〜158cm程度だったと言われていますが、龍馬の身長はなんと約173cmもあったそうです。当時の日本人としてはかなりの大柄で、周囲の人々からは見上げるような存在だったことでしょう。大きな体で肩で風を切って歩く姿は、きっと目立っていたはずです。この恵まれた体格は、剣術の修行や、長い刀を扱う際にも大きなアドバンテージになったと考えられます。

 

3.幼少期は泣き虫

豪快なイメージが強い龍馬ですが、子供の頃は「よばいたれ(寝小便たれ)」とあだ名をつけられるほどの泣き虫で弱虫でした。勉強も苦手で、塾に行ってもついていけずに退塾させられてしまったというエピソードも残っています。偉人として名を残す彼にも、こんなに頼りない時期があったなんて驚きですよね。しかし、そんな彼を愛情深く見守り、厳しく鍛え上げたのが家族、特に姉の乙女だったのです。

 

4.北辰一刀流の達人

勉強は苦手でしたが、剣術に関しては類まれな才能を発揮しました。江戸へ剣術修行に出た龍馬は、名門である北辰一刀流の道場に入門。メキメキと腕を上げ、ついには塾頭を務めるほどの腕前になったと言われています。単なる交渉人や政治家としてだけでなく、いざとなれば自らの身を守れるだけの高い戦闘能力を持っていたことが、危険な幕末を渡り歩く助けになったのでしょう。

 

5.姉・乙女は最強?

龍馬の人格形成に大きな影響を与えた姉の乙女(おとめ)。彼女は身長が175cm近くあり、体重は100kgを超えていたとも言われる女傑でした。剣術や馬術だけでなく、水泳や三味線までこなす多才な人物で、泣き虫だった龍馬を厳しく指導しました。龍馬が脱藩した後も頻繁に手紙をやり取りしており、彼にとって乙女姉さんは、一生頭の上がらない、そして最も心を許せる良き相談相手だったのです。

 

6.黒船を見て大興奮

ペリーが黒船で来航した際、龍馬は江戸湾の警備に駆り出されていました。多くの日本人が巨大な蒸気船に恐怖する中、龍馬は実家への手紙で「異国の船が来て戦になりそうだ」と書きつつも、どこか興奮した様子を見せています。この時、西洋の圧倒的な技術力を目の当たりにしたことが、後の「海軍を作りたい」という夢や、世界に目を向ける広い視野を持つきっかけになったのかもしれません。

 

7.脱藩は死罪の重罪

龍馬は土佐藩(現在の高知県)を二度も脱藩していますが、当時の脱藩は死罪にもなり得る非常に重い罪でした。家族にも累が及ぶため、本来なら絶縁されてもおかしくない行為です。しかし、坂本家の人々は秘密裏に資金援助をするなどして彼を支え続けました。龍馬が自由に活動できた背景には、彼を信じて送り出した家族の深い愛情と覚悟があったことを忘れてはいけません。

 

8.勝海舟を斬る予定?

開国論者であった勝海舟を「国を売る悪人」と思い込み、龍馬は彼を斬るために会いに行きました。しかし、勝海舟から世界情勢や海軍の重要性を説かれると、その考えに感服。「自分の考えは小さかった」と恥じ入り、その場で弟子入りを志願したのです。自分の過ちを素直に認め、昨日の敵でも師と仰ぐことができるこの柔軟性こそが、龍馬の最大の武器だったと言えるでしょう。

 

9.日本初の商社結成

龍馬は長崎で「亀山社中(のちの海援隊)」を結成しました。これは物資の輸送や貿易を行う組織で、事実上の日本初の株式会社と言われています。彼らは薩摩藩の名義を使って武器や軍艦を購入し、それを長州藩に流すというビジネスを行いました。武士が商売をすることは卑しいとされた時代に、経済活動を通じて政治を動かそうとした発想は、あまりにも革新的でした。

 

10.薩長同盟の仲介

当時、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩。この二大勢力が手を組まなければ倒幕は不可能だと考えた龍馬は、中岡慎太郎らと共に奔走し、歴史的な薩長同盟を成立させました。両藩の利害を調整し、感情的な対立を乗り越えさせたのは、龍馬の信用と人間力があってこそ。この同盟がなければ、明治維新はもっと遅れていたか、あるいは日本の形が全く違っていたかもしれません。

 

11.船中八策の凄さ

龍馬が船の中で考えたとされる「船中八策」。ここには「大政奉還(政権を朝廷に返す)」や「議会の開設」、「憲法の制定」など、現代の日本の骨組みとなる画期的なアイデアが詰め込まれていました。これらは後に「五箇条の御誓文」の基礎になったとも言われています。武力による革命ではなく、平和的な政権交代を目指した彼の構想力は、100年先を見通していたかのような先見の明に満ちています。

 

12.ブーツがお気に入り

龍馬の有名な写真を見ると、和装に革靴(ブーツ)を合わせているのが分かります。これは当時としては最先端のファッションでした。彼は西洋の文化を積極的に取り入れようとしており、実用性を重視していました。ぬかるんだ道でも歩きやすく、何より「新しい時代の男」という気概を感じさせます。この独特のスタイルは、彼の自由で型破りな精神性を象徴しているようです。

 

13.懐にはピストル

刀だけでなく、龍馬は護身用としてスミス&ウェッソンの拳銃を携帯していました。これは高杉晋作から上海土産として贈られたものだと言われています。寺田屋事件で襲撃された際には、この拳銃を発砲して難を逃れました。剣の達人でありながら、より実戦的な新しい武器もためらわずに使う。ここにも、古い慣習にとらわれず、生き残るために最善の手段を選ぶ合理主義が見て取れます。

 

14.お龍の機転

京都の伏見にある宿・寺田屋で、龍馬が幕府の捕吏に囲まれた際、いち早く危機を知らせたのが後のお龍でした。彼女は入浴中でしたが、窓から敵の気配に気づくと、裸のまま階段を駆け上がり、二階にいる龍馬に急を知らせたのです。この大胆な行動のおかげで、龍馬は準備を整えて脱出することができました。お龍の度胸と龍馬への強い想いが、歴史を繋いだ瞬間でした。

 

15.写真のポーズの謎

龍馬の最も有名な立ち姿の写真。よく見ると、懐に手を入れていますよね。実はこれ、「ピストルをいつでも抜けるように構えている」という説や、「単に本を懐に入れていただけ」という説など諸説あります。また、彼が寄りかかっている台は、写真館にあった撮影用の小道具です。あの堂々としたポーズは、カメラマンの指示だったのか、龍馬自身の演出だったのか、想像するだけでロマンがありますね。

 

16.いろは丸事件の交渉

龍馬率いる海援隊の船「いろは丸」が紀州藩の軍艦と衝突して沈没した事件。龍馬は、相手が御三家の紀州藩であろうと引かず、当時としては画期的な「万国公法(国際法)」を持ち出して談判しました。さらに、世論を味方につけるために流行歌を流行らせるなど、巧みな情報戦を展開。結果として、多額の賠償金を勝ち取りました。彼の並外れた交渉能力が発揮された事件です。

 

17.万国公法の活用

いろは丸事件で龍馬が武器にした「万国公法」。これは国際的な海のルールなどが書かれた本です。当時の日本の武士たちは「身分」や「面子」で物事を判断しがちでしたが、龍馬は「世界共通のルール」を根拠に戦いました。誰も言い返せない正当な論理を持ち込むことで、圧倒的に不利な立場を逆転させたのです。新しい知識をただ知るだけでなく、実戦で使いこなす応用力が凄まじいですね。

 

18.新政府に興味なし

大政奉還を成し遂げた後、新政府の役職リスト(案)に龍馬の名前はありませんでした。西郷隆盛が不思議に思って尋ねると、龍馬は「わしは世界の海援隊をやる」と答えたと言います。彼は権力や地位には固執せず、日本という枠組みすら超えて、世界を相手に貿易ビジネスを行う夢を持っていたのです。政治家になることよりも、広い海を自由に駆け巡る方が、彼の性分に合っていたのでしょう。

 

19.誕生日は命日と同じ

不思議な巡り合わせですが、坂本龍馬の誕生日は天保6年11月15日。そして、暗殺されたのも慶応3年の11月15日でした。満31歳(数え年で33歳)という若さで、自分の生まれた日にその生涯を閉じたのです。まるで、天から与えられた使命をすべて果たし、きっちりと幕を引いたかのようなドラマチックな最期。この偶然の一致が、龍馬をより神格化された存在にしている一因かもしれません。

 

20.好物は軍鶏鍋

龍馬が暗殺された近江屋で、最後に食べようとしていたのが軍鶏鍋(しゃもなべ)でした。彼は下僕に軍鶏を買いに行かせており、その帰りを待っている間に襲撃されました。寒い冬の夜、友人の中岡慎太郎と熱々の鍋を囲んで、日本の未来について語り合うつもりだったのでしょう。今でも龍馬の命日には、彼を偲んで軍鶏鍋を食べるイベントが各地で行われ、多くのファンに愛される味となっています。

 

21.筆まめな性格

龍馬は非常に筆まめで、現存する手紙だけでも140通近くあります。その多くは家族や友人宛てで、政治的な話だけでなく、日常の些細な出来事や愚痴、冗談などがユーモアたっぷりに書かれています。中には、図解入りで説明したものや、巻紙の長さを無視して延々と書き綴ったものも。これらの手紙は、彼の思考プロセスや素顔を知るための、極めて貴重な歴史資料となっています。

 

22.方言丸出しの手紙

彼の手紙の特徴は、飾らない「土佐弁」で書かれていること。「〜ぜよ」「〜じゃき」といった言葉が頻繁に登場し、まるで彼が目の前で喋っているかのような臨場感があります。公的な文書では候文(そうろうぶん)を使っていましたが、身内への手紙では方言を隠しませんでした。この裏表のない、ありのままの自分をさらけ出す姿勢が、多くの人を惹きつける人間的魅力だったのかもしれません。

 

23.実は近眼だった説

龍馬はかなりの近眼だったのではないかという説があります。手紙を書く際に字がどんどん小さくなったり、行が曲がったりしていることや、人を識別するのによく見つめる癖があったという証言などが根拠です。もしそうなら、薄暗い中での暗殺時、敵の姿をはっきりと捉えるのは難しかったかもしれません。眼鏡のない時代、不自由さを抱えながらもあれだけの偉業を成し遂げた胆力に感服します。

 

24.髪型へのこだわり

当時の武士は月代(さかやき)を剃って髷(まげ)を結うのが一般的でしたが、龍馬は総髪(そうはつ)という、髪を剃らずに後ろで束ねるスタイルを好んでいました。また、髪が天然パーマ気味だったとも言われています。身だしなみに無頓着なようでいて、実は自分なりのスタイルを持っていた龍馬。形式的な伝統よりも、自分にとっての「自然体」や「合理性」を大切にする美学があったのでしょう。

 

25.家紋は桔梗紋

坂本家の家紋は「組み合わせ角に桔梗(ききょう)」です。これは明智光秀の家紋と同じ系統であり、坂本家には「我々は明智光秀の子孫である」という伝承があったそうです(真偽は定かではありませんが)。龍馬自身も、謀反人と言われた光秀の末裔であるという伝説を、どこか面白がっていた節があります。古い権威に立ち向かい、時代をひっくり返そうとした姿勢は、ご先祖様譲りの反骨精神だったのかもしれません。

 

26.世界への強い憧れ

龍馬の視線は常に海の向こう、世界に向いていました。彼は英語の勉強にも関心を持ち、辞書を懐に入れていたという話もあります。「日本を洗濯する」という有名な言葉にも表れているように、狭い日本の中での争いよりも、世界と対等に渡り合える国にしたいという大きな夢を持っていました。彼が生きていれば、きっと世界中を飛び回る国際的なビジネスマンになっていたことでしょう。

 

27.西郷隆盛の評価

薩摩の西郷隆盛は、龍馬のことを「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの未だ之を見ず」と評しました。つまり、「いろんな人物と会ったが、龍馬ほど器のデカい男は見たことがない」と絶賛しているのです。あの西郷どんにここまで言わせるとは、龍馬の人間的なスケールがいかに規格外だったかが分かります。二人の間には、言葉を超えた男同士の信頼関係があったのです。

 

28.暗殺の黒幕は誰?

龍馬暗殺の実行犯は京都見廻組という説が有力ですが、その背後にいた「黒幕」については諸説入り乱れています。幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、さらには新選組説など、未だに歴史のミステリーとして議論が尽きません。それだけ龍馬という存在が、当時の各勢力にとって「目の上のたんこぶ」であり、同時に「無視できない影響力」を持っていた証拠です。真相が分からないからこそ、物語はより深みを増すのです。

 

29.現代に残る龍馬

龍馬が設立した「海援隊」の精神や、彼が目指した「株式会社」の仕組みは、現代の日本の経済活動の基礎となっています。また、ソフトバンクグループの孫正義氏など、現代の経営者の中にも「龍馬を尊敬している」と公言する人は少なくありません。彼の自由な発想と行動力は、時代を超えて、挑戦する人々のバイブルとなり、勇気を与え続けているのです。まさに、魂は今も生き続けていると言えます。

 

30.愛刀・陸奥守吉行

龍馬が最期まで愛用していた刀が「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」です。土佐の刀工が打ったもので、決して最高級の名刀というわけではありませんでしたが、切れ味は鋭く、実用的な刀でした。龍馬はこの刀を非常に気に入っており、兄に自慢する手紙も送っています。飾り物ではなく、実際に使える道具を愛する。ここにも、形式よりも実質を重んじる、龍馬らしい道具へのこだわりが感じられます。

 

まとめ

いかがでしたか? 坂本龍馬という人物は、教科書に載っているような「偉い人」という枠には収まりきらない、チャーミングで人間臭い魅力に溢れていますね。泣き虫だった少年が、やがて日本の夜明けを呼び込む英雄へと成長していくストーリーは、いつの時代も私たちの胸を熱くさせてくれます。

次に京都や高知を訪れる際、あるいはふと空を見上げた時に、ブーツを履いて世界を見つめていた龍馬の姿を思い出してみてください。きっと、彼から「細かいことは気にせず、自由に生きるぜよ!」と背中を押してもらえるはずですよ。

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