日本人なら誰もが知っている歴史上のスーパースター、聖徳太子。かつては紙幣の顔としてもおなじみでしたが、実は人間離れした数々の伝説や、近年ささやかれている「いなかった説」など、知れば知るほどミステリアスな人物なんです。今回は、そんな聖徳太子の意外な素顔や驚きのエピソードを30個厳選してご紹介します。教科書には載っていない面白い話ばかりですので、ぜひ楽しんでくださいね。
1.一度に10人の話を聞けた
聖徳太子といえば、この伝説が一番有名ですよね。10人が同時に別々の訴え事を話したのに、太子はそれらを全て聞き分け、的確な返答をしたと言われています。これは単に耳が良かったというより、驚異的な情報処理能力を持っていたことを表すエピソードでしょう。一説には「36人の話を聞き分けた」なんてさらに凄い話まで残っているんですよ。
2.本名は「聖徳太子」ではない
実は「聖徳太子」という名前は、彼が亡くなった後に贈られた尊称(おくりな)なんです。生前の本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と言います。他にも「豊聡耳(とよさとみみ)」など、いくつもの呼び名がありました。現代で言うところの、偉大すぎて死後に「レジェンド」というあだ名がついたような感覚に近いかもしれませんね。
3.馬小屋の前で生まれた
本名の「厩戸(うまやど)」は、文字通り馬小屋の戸口で生まれたことに由来すると言われています。母親が宮中の馬小屋の前を通りかかったとき、急に産気づいて出産したのだとか。キリストの誕生エピソードと似ているため、「後世の人が創作したのでは?」という説もありますが、当時の状況を想像するとかなりドラマチックですよね。
4.お札への登場回数が最多
昭和生まれの方には懐かしい、一万円札の顔。実は聖徳太子は、日本の紙幣に合計7回も採用されているんです。これは歴史上の人物の中で最多記録。百円、千円、五千円、一万円と、あらゆる額面を制覇しています。「お札といえば太子」というイメージが定着していたのも納得ですよね。
5.実は絶世の美男子?
教科書などで見る肖像画は、髭を蓄えた厳格なイメージですが、若い頃はかなりの美男子だったという説があります。実際、彼が建立した法隆寺に伝わる像などを見ると、涼しげな顔立ちをしています。知性的でイケメンだったとしたら、当時の人々からの人気が絶大だったのも頷けますね。
6.冠位十二階を制定
家柄だけで役職が決まる当時のシステムを改革し、才能や功績のある人を積極的に採用するために作られたのが「冠位十二階」です。冠の色でランクを分け、個人の能力を評価しようとしたこの制度は、日本における「実力主義」の先駆けと言えるでしょう。紫色が一番偉いという色のルールもここから広まりました。
7.十七条憲法を作成
「和を以て貴しと為す(わをもってとうとしとなす)」という有名なフレーズで始まる憲法です。これは現代のような法律というよりは、役人としての心構えや道徳を説いたマナーブックのようなものでした。「喧嘩せずに仲良く議論しよう」「サボらず働こう」といった、現代のビジネスマンにも通じる教えが詰まっているんですよ。
8.遣隋使を派遣した
中国(当時は隋)の進んだ文化や制度を学ぶため、小野妹子らを派遣しました。有名な「日出づる処の天子…」という手紙は、相手の皇帝を激怒させたことで知られていますが、これはあえて対等な外交関係を築こうとした太子の高度な政治戦略だったと言われています。度胸がすごすぎますよね。
9.法隆寺を建てた
奈良県にある法隆寺は、聖徳太子が建立したとされ、世界最古の木造建築として世界遺産にも登録されています。1400年以上も前に建てられた建物が今も残っていること自体が奇跡的ですが、太子の仏教への深い信仰心と、当時の建築技術の高さがうかがえますね。
10.四天王寺も建立
大阪にある四天王寺も聖徳太子による建立です。こちらは、蘇我氏と物部氏の戦いの最中に「勝ったら四天王を祀るお寺を建てます!」と祈願し、見事勝利したために建てられました。法隆寺がお坊さんの修行の場なら、四天王寺は民衆を救済する福祉施設としての側面が強かったそうです。
11.仏教を広めた功労者
当時の日本にはまだ仏教が定着していませんでしたが、太子は自ら経典の解説書(三経義疏)を書くほど熱心に勉強し、普及に努めました。神道を重んじる豪族との対立もありましたが、彼は神道と仏教を対立させるのではなく、うまく融合させる道を探ったとも言われています。
12.空を飛ぶ馬に乗っていた
伝説によると、太子は「黒駒(くろこま)」という愛馬に乗って空を駆け巡ったそうです。なんと奈良の斑鳩から富士山の上空を飛び越えて、信濃(長野県)までひとっ飛びしたとか。もはやスーパーヒーローのような話ですが、彼があちこちを視察して回った行動力が、神話化されたのかもしれません。
13.未来予知能力があった
太子には未来を見通す力があったとされ、『未来記』という予言書を残したという伝説があります。そこには平安京への遷都や、鎌倉幕府の成立など、はるか後の歴史的事件まで記されていたとか。この本は実在が確認されていませんが、多くの歴史上の偉人がこの「予言書」を探し求めたそうです。
14.刀を抜かずに勝つ
太子は武芸にも秀でていましたが、むやみに人を傷つけることを嫌いました。襲ってきた敵に対して、刀を抜くことなく、言葉や威厳だけで相手を諭して退散させたというエピソードがあります。武力ではなく知性と徳で解決する、まさに「聖徳」の名にふさわしい逸話ですね。
15.「天皇」ではなかった
これだけ偉大な功績を残しながら、実は彼は天皇にはなっていません。推古天皇という日本初の女性天皇の摂政(補佐役)という立場でした。自分がトップに立つよりも、実務を取り仕切るポジションの方が、彼の能力を最大限に発揮できたのかもしれませんね。
16.温泉が大好きだった
聖徳太子は温泉愛好家としても知られています。愛媛県の道後温泉には、太子が入浴して「気持ちよかった!」と石碑に書き残したという伝説があります。激務の疲れを癒やすために、はるばる湯治の旅に出かけていたと思うと、なんだか親近感が湧いてきませんか?
17.お酒に強かった?
あまりお酒のイメージはないかもしれませんが、宴会の席では誰よりも強く、乱れることがなかったと言われています。酒豪というよりは、自己コントロール能力が極めて高かったのでしょう。酔って失敗するなんてことは、彼の辞書にはなかったのかもしれません。
18.杓(しゃく)の裏には…
肖像画で太子が手に持っている細長い板のようなもの、あれは「杓(しゃく)」と言います。実はあの裏側には、カンニングペーパー(儀式の進行やメモ)が貼ってあったという説があります。天才と言われる太子でも、大事な儀式で間違えないようにメモを用意していたとしたら可愛いですね。
19.愛犬家だった
太子は「雪丸(ゆきまる)」という名前の白い犬を飼っていたと伝えられています。この雪丸、なんと人の言葉を理解し、お経も読めたという伝説が。現在は奈良県王寺町の公式マスコットキャラクターにもなっています。太子のペットなら、それくらい賢くても不思議ではないかも?
20.箸を使った食事を推奨
それまでの日本人は手づかみで食事をすることもありましたが、太子は隋の文化を取り入れ、箸を使って食事をすることを推奨しました。これは単なるマナー向上だけでなく、衛生面の改善や、外交の場で「野蛮な国だ」と思われないための配慮だったと言われています。
21.富士山に登った伝説
空飛ぶ馬の伝説でも触れましたが、太子は富士山に登頂したという話もあります。当時は登山道などない険しい山ですが、頂上まで行き、そこからの景色を眺めたとか。これが事実なら、日本最古の登山家の一人ということになりますね。
22.「日本」という国名の祖
それまで「倭(わ)」と呼ばれていた国名を、「日本(ひのもと)」という言葉に変えていこうとしたのも、太子の時代からだと言われています。遣隋使への手紙にある「日出づる処」という表現が、のちの国号の由来になったという説が有力です。私たちの国名の名付け親の一人と言えるでしょう。
23.達磨大師と会った
ある日、道端で飢えた旅人を見つけた太子は、自分の着物をかけて助けました。しかし翌日見に行くと旅人は消えており、着物は綺麗に畳まれていました。実はその旅人は、仏教の祖の一人である達磨(だるま)の化身だったという伝説です。聖人同士は惹かれ合うということでしょうか。
24.教科書から消えかけた
近年、歴史の教科書での表記が「聖徳太子」から「厩戸王(聖徳太子)」へと変わったり、記載自体が減ったりして話題になりました。「聖徳太子という完璧な人物は実在せず、複数の人物の功績をまとめた偶像ではないか」という学説が出てきたためです。それでも、彼の知名度が抜群であることに変わりはありません。
25.地球儀を作った?
兵庫県の斑鳩寺には、聖徳太子ゆかりとされる「ソフトボール大の地球儀」が伝わっています。驚くべきことに、そこには日本だけでなくユーラシア大陸やアメリカ大陸らしきものまで描かれているとか。これが本物ならオーパーツ級の発見ですが、実際は江戸時代頃に作られたものという説が濃厚です。
26.忍者の元祖を使っていた
太子には「大伴細人(おおとものほそひと)」という優秀なスパイが仕えていたと言われています。彼は身軽で情報収集に長けており、これが忍者のルーツだという説も。政治の裏側では、こうした諜報活動が太子の政権運営を支えていたのかもしれません。
27.実は短気だった一面も
温厚なイメージの太子ですが、一度だけ激怒した記録があるそうです。それは、自分たちが一生懸命作った法律やルールを無視して、私利私欲に走る豪族たちに対してでした。正義感が強いからこそ、不正や腐敗に対しては誰よりも厳しく怒りを露わにしたのでしょう。
28.悲劇的な一族の最期
太子の死後、彼の一族(上宮王家)は蘇我入鹿によって攻め滅ぼされてしまいます。平和を愛し、争いを避けることを説いた太子の子孫たちが、政治的な争いに巻き込まれて断絶してしまったのは、歴史の皮肉であり、最大の悲劇と言われています。
29.命日のミステリー
聖徳太子は、妻である膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)と、なんと1日違いで亡くなっています。看病疲れとも、伝染病だったとも言われていますが、あまりに近い時期の死に、深い絆を感じると同時に、何らかの事件性を疑う歴史ファンも少なくありません。
30.今も愛される理由
実在したかどうか議論されるほど、あまりに完璧すぎる聖徳太子。しかし、彼が目指した「和の精神」や「能力主義」は、今の日本社会の土台になっています。伝説が多いのは、それだけ当時の人々が彼に理想のリーダー像を重ね合わせ、憧れ続けてきた証拠なのかもしれませんね。
まとめ
いかがでしたでしょうか。お札の顔として有名な聖徳太子ですが、空を飛んだり、未来を予知したりと、まるで漫画の主人公のような伝説がたくさんありましたね。一方で、外交や政治に奮闘した人間味あふれるエピソードも魅力的です。次に法隆寺や一万円札(旧紙幣)を見る機会があったら、ぜひこの超人エピソードを思い出して、周りの人に話してみてくださいね。