※本記事は広告を含みます。掲載画像はAI生成または商品イメージです。実物と異なる場合があります。 教養・学び

福沢諭吉の雑学30選~一万円札の意外な素顔~

福沢諭吉雑学

日本で最も有名なお札の顔、福沢諭吉。皆さんも一度は手にしたことがあるはずですが、彼が一体どんな人物だったのか、詳しくは知らないという方も多いのではないでしょうか?実は彼は、単に勉強を教えた偉い先生というだけでなく、お酒が大好きだったり、ちょっとお茶目な一面があったりと、非常に人間味あふれる人物なのです。今回は、そんな福沢諭吉の知られざるエピソードや意外な素顔を30個の雑学としてご紹介します。

 

1.お酒が大好物

諭吉は無類のお酒好きでした。若い頃から毎晩のように飲み、「禁酒する」と宣言したものの結局我慢できず、その代わりにタバコを始めたというエピソードがあります。結局、酒もタバコもやめられず、両方嗜むようになってしまったそうです。幼少期からお酒をたしなんでいたという記録もあり、まさに筋金入りの愛好家でした。

 

2.高身長だった

明治時代の日本人男性の平均身長は約155cm程度と言われていますが、諭吉の身長は約173cmもありました。当時としてはかなりの大柄で、街を歩いていても非常に目立つ存在だったようです。威厳のある顔つきと相まって、周囲には圧倒的な迫力を感じさせていたことでしょう。

 

3.カレーの紹介者

実は、日本に初めて「カレー」という料理の概念を紹介したのは諭吉だと言われています。彼が翻訳・出版した英単語帳の中で、Curryを「コルリ」と表記し、料理の説明を加えました。実際に彼が食べたかどうかは諸説ありますが、日本のカレー文化の夜明けに関わっていたのは驚きですね。

 

4.牛鍋を広めた

明治維新当時、日本ではまだ牛肉を食べる習慣が一般的ではありませんでした。しかし、諭吉は「牛肉は滋養強壮に良い」といち早く目をつけ、積極的に食べることを推奨しました。彼が牛肉のおいしさを広めたことで、当時の文明開化の象徴である牛鍋(すき焼きの原型)が大流行したとも言われています。

 

5.神様への実験

子供の頃の諭吉は、迷信を信じない合理主義者でした。ある日、神社の御神体であるお札を足で踏みつけ、「罰が当たるか」を試しました。しかし何も起こらなかったため、さらにお札をトイレに捨てるという過激な実験まで行いました。それでも罰が当たらなかったことから、彼は迷信を否定する考えを強めたそうです。

 

6.名著の売上

彼の代表作『学問のすゝめ』は、当時としては異例の340万部以上を発行する大ベストセラーとなりました。当時の日本の人口が約3,500万人だったことを考えると、なんと国民の10人に1人がこの本を持っていた計算になります。これは現代の出版業界でもありえないほどの驚異的な記録です。

 

7.英語への転向

最初はオランダ語(蘭学)を学んでいましたが、横浜の開港地を訪れた際、オランダ語が全く通じず、看板もすべて英語であることにショックを受けました。そこで「これからは英語の時代だ」と即座に決断し、独学で英語の勉強を始めました。この柔軟な切り替えの早さが、彼の成功の鍵だったのです。

 

8.演説の生みの親

英語の「Speech」という言葉を日本語に翻訳する際、諭吉は「演説」という言葉を当てました。それまでの日本には、大勢の前で自分の意見を堂々と述べる文化がほとんどありませんでした。彼は三田演説館を建設し、日本人に議論やスピーチの重要性を説き続けました。

 

9.社会という言葉

「Society」という英単語を翻訳する際、諭吉は「人間交際」などと訳していましたが、最終的に「社会」という言葉が定着する流れを作りました。普段私たちが当たり前に使っている言葉の多くは、彼や当時の知識人たちが苦労して日本語に置き換えたものなのです。

 

10.実は居合の達人

ペンを持って机に向かっているイメージが強いですが、実は剣術の腕前も相当なものでした。若い頃に居合(いあい)の免許皆伝を受けており、心身の鍛錬として晩年まで素振りを欠かさなかったと言われています。文武両道を地で行く人物だったのですね。

 

11.散歩マニア

健康維持のためにウォーキングを日課としていました。ただ歩くだけでなく、腕を大きく振って早歩きで進むスタイルで、一度歩き出すと数キロメートルは平気で移動しました。雨の日でも家の中で歩き回るほど徹底しており、その健脚ぶりは有名でした。

 

12.先生呼びを禁止

慶應義塾の創設者でありながら、彼は自分を「先生」と呼ばせませんでした。「先生」と呼ばれるのは自分一人のみであるべきと考えたわけではなく、むしろ上下関係を嫌い「先生」という呼称自体を避けたかったようです。門下生たちは互いに「君(くん)」付けで呼び合う文化が生まれました。

 

13.娘への愛情

諭吉は非常に子煩悩で、特に娘たちを大切にしていました。ある時、娘をいじめた男の子に対して本気で怒り、体当たりをして懲らしめたという逸話も残っています。当時の家父長制的な厳格な父親像とは異なり、家族への愛情を隠さないマイホームパパでした。

 

14.名前の由来

「諭吉」という名前は、儒教の経典である『上諭条例(じょうゆじょうれい)』から取られました。彼が生まれた日に、父親がたまたまこの本を手に入れ、非常に喜んだことから名付けられたそうです。まさに生まれた瞬間から本と縁があったと言えます。

 

15.アメリカ土産

初めてアメリカに渡った際、彼が自分へのお土産として買ったのは、ブランド品や宝石ではなくウェブスター大辞典でした。当時の金額で言えばかなりの高額でしたが、彼はこの辞書を日本に持ち帰り、その後の英語研究や翻訳作業に大いに役立てました。

 

16.写真嫌いの理由

諭吉の写真は、ほとんどが口を真一文字に結んだ厳しい表情をしています。これは彼が威厳を保とうとしたわけではなく、実は歯並びが悪かったことを気にしていたからだと言われています。笑うと歯が見えてしまうのを避けるため、いつも口を閉じて写真を撮っていたのです。

 

17.保険制度の紹介

欧米の近代的な仕組みを数多く日本に紹介しましたが、その中には「保険」の概念も含まれています。彼は著書の中で、万が一の災害や病気に備えて大勢でお金を出し合う仕組みを「災難請合(さいなんうけあい)」として紹介しました。これが現在の生命保険や損害保険のルーツの一つです。

 

18.伝染病研究所

ペスト菌の発見などで知られる北里柴三郎を支援し、日本初の伝染病研究所の設立に尽力しました。国からの援助が得られず困っていた北里のために、諭吉は私財を投じて研究所を作らせました。医学の発展にも、彼のポケットマネーが大きく貢献していたのです。

 

19.男女平等の思想

明治時代において、女性の地位向上を訴えた数少ない知識人の一人です。彼は「人」として男女に上下はないと考え、著書でも女性が自立することの重要性を説きました。娘たちにも男の子と同じ教育を受けさせ、自分の財産を分け与えるなど、時代を先取りしたフェミニストでした。

 

20.下級武士の出身

偉大な功績を残した彼ですが、実家は中津藩の下級武士の家系でした。身分制度が厳しい時代にあって、家柄による差別に強い憤りを感じていました。この経験が、後の「天は人の上に人を造らず」という平等思想の根底にあると言われています。

 

21.ビールの飲み方

適塾で学んでいた学生時代、禁酒の規則がありましたが、諭吉たちはこっそりお酒を楽しんでいました。なんと、ビールを飲む際にごまかすため、急須に入れてお茶を飲むふりをして宴会を開いていたそうです。勉強だけでなく、悪知恵も働く学生だったのですね。

 

22.政府への態度

明治政府から何度も「役人になってほしい」と誘われましたが、彼は生涯それを断り続けました。権力の中に入るよりも、民間の立場から自由に発言し、教育や言論を通じて国を良くすることを選んだのです。この独立自尊(どくりつじそん)の精神こそが彼の真骨頂です。

 

23.春画の翻訳?

嘘か本当か定かではありませんが、若い頃にお金に困った際、春画(大人の絵)に書かれているオランダ語の文章を翻訳するアルバイトをしたという噂があります。内容はともかく、自分の持っている語学スキルをお金に変えるたくましさは、若い頃から健在だったようです。

 

24.バナナの初体験

アメリカ行きの船の中で、諭吉は初めてバナナを目にしました。しかし、食べ方がわからず、皮をむかずに丸かじりしてしまい、「ひどく渋くて不味かった」という感想を残しています。未知のフルーツに対する可愛い失敗談です。

 

25.動物園の提案

欧米視察の際、博物館や動物園という施設に感銘を受けました。彼は、珍しい動物を集めて見せることは単なる見世物ではなく、人々の教養を深めるために必要だと考え、日本にも博物館や動物園を作るべきだと提言しました。

 

26.自分でお掃除

家では自分で部屋の掃除をすることを日課にしていました。使用人がいるにもかかわらず、自分のことは自分でする、あるいは体を動かすことを厭わない性格でした。また、米つきなどの重労働も進んで行い、それを健康体操の一環として楽しんでいたようです。

 

27.遺言がない

諭吉は死に際に特別な遺言を残しませんでした。これは、彼の生き様や考え方がすでに著書や慶應義塾の教えの中に十分に記されており、改めて言い残すことはないと考えたからかもしれません。あるいは、突然の脳出血で倒れ、言葉を発せなかったためとも言われています。

 

28.お墓の場所

彼のお墓は、東京都港区にある善福寺(ぜんぷくじ)にあります。ここは福沢諭吉が愛した麻布の地に近く、毎年命日である2月3日(雪池忌)には、多くの慶應義塾関係者やファンが訪れ、彼を偲んでいます。

 

29.紙幣の顔歴

彼が一万円札の顔になったのは1984年のことです。以来、2024年に渋沢栄一にバトンタッチするまで、約40年間にわたり最高額紙幣の顔として君臨しました。これほど長く愛された理由は、彼が日本の近代化に尽くした最大の功労者の一人であり、教育者としてクリーンなイメージがあったからでしょう。

 

30.自由という訳語

「Liberty」や「Freedom」を翻訳する際、諭吉は「自由」という言葉を積極的に用いました。それまでは「わがまま」や「勝手気まま」という意味合いが強かったこの言葉に、自らの責任で行動するというポジティブな意味を与え、近代的な権利としての「自由」を定着させたのです。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。お札の顔としてすましている福沢諭吉にも、お酒で失敗したり、バナナの皮をむき忘れたりと、私たちと同じような人間らしい一面がたくさんありましたね。でも、そんな親しみやすい性格でありながら、常に新しいものを柔軟に取り入れ、日本の未来を切り開いていった情熱は本物です。もし今度、古い一万円札を見かけることがあったら、ぜひ彼の「独立自尊」の精神と、ちょっとお茶目な笑顔を思い出してみてくださいね。

-教養・学び