ちょんまげ姿の武士が歩いていた江戸時代が終わり、西洋の文化が一気に流れ込んできた「明治時代」。私たちの今の暮らしにつながるたくさんの「日本初」が生まれた、とてもエネルギッシュでワクワクする変革の時代ですよね。
今回は、そんな文明開化の裏側に隠された面白いエピソードをたっぷり30個集めました!歴史の教科書には載っていないような意外な人物の逸話や暮らしの豆知識を、ぜひ楽しみながら読んでみてくださいね。
1.給料日に消えた2日間

明治5年、日本はそれまでの旧暦から太陽暦へと切り替えを行いました。その結果、なんと明治5年12月3日が明治6年1月1日になったのです!実はこれ、当時の政府が深刻な財政難に陥っており、役人たちに支払う12月分の月給を浮かせるために強行したという説が有力です。たった2日間で12月が終わってしまったため、突然お正月を迎えることになった当時の人々は、さぞかし大混乱だったことでしょうね。
2.牛肉食を広めた天皇

仏教の影響で、日本では長らく動物の肉を食べることがタブーとされてきました。しかし西洋に追いつくため、明治5年に明治天皇が自らお肉を召し上がったと新聞で報じられたのです。これをきっかけに、庶民の間でも現在のすき焼きのルーツである「牛鍋」が大ブームとなりました。「天皇陛下も食べているなら安心だ!」と、当時の人々はこぞって新しい味覚に舌鼓を打ったそうですよ。
3.郵便ポストは黒かった

今ではすっかり「赤い」イメージが定着している郵便ポストですが、明治4年に郵便制度が始まった当初は、なんと木製で黒塗りの箱が使われていました。しかし、当時は街灯も少なく夜道が真っ暗だったため、公衆便所と間違えて用を足す人が続出してしまったのです!この悲劇を防ぐため、明治34年からは遠くからでも目立つ赤色の鉄製へと順次切り替えられていきました。意外すぎる理由に思わず笑ってしまいますね。
4.鉄道で靴を脱ぐ乗客

明治5年、新橋と横浜の間に日本初の鉄道が開通しました。初めて見る「陸蒸気(おかじょうき)」に人々は熱狂しましたが、乗車する際には面白いハプニングが相次ぎました。畳の部屋に上がる習慣が染み付いていた当時の日本人は、駅のホームに履物を揃えて脱ぎ捨て、裸足や足袋のまま客車に乗り込んでしまったのです。列車が発車して次の駅に着いたとき、自分の下駄がどこにもないと気づいて大騒ぎになったそうですよ。
5.あんパンと桜の塩漬け

銀座の木村屋が考案した「あんパン」は、西洋のパンと日本のあんこを融合させた明治の大発明です。明治8年、このパンを明治天皇へ献上することになり、職人は日本らしさを出す工夫として、真ん中に八重桜の花びらを塩漬けにしたものを埋め込みました。ほんのりとした塩気が甘いあんこを引き立て、天皇も大変お気に召されたそうです。私たちが普段何気なく食べている菓子パンにも、こんな素敵な歴史が詰まっているのですね。
6.断髪令は強制ではない

「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という有名なフレーズがありますが、実は明治4年に出されたお触れは、髪を切ることを強制するものではなく「髪型を自由にしてよい」という許可でした。それでも侍魂を捨てきれない武士が多く、なかなか普及しなかったため、明治6年に明治天皇が自らちょんまげを落として洋装の写真を公開しました。すると翌年には、東京の男性のほとんどが一斉に短髪へと変わったそうです。
7.日本初の美人コンテスト

明治24年、浅草にそびえ立つ高層タワー「凌雲閣(通称・浅草十二階)」で、日本初となるコンテストが開催されました。それは、新橋などの人気芸者約100人の顔写真を展示して来館者に投票してもらうという、現代の総選挙さながらのイベントでした!当時最新の撮影技術と新聞メディアを連動させた企画に世間は大熱狂し、見事1位に輝いた芸者さんは一夜にして全国区のスターになったと言われています。
8.苗字を名乗る義務

江戸時代までは、庶民が公に苗字を名乗ることは許されていませんでした。明治3年に「苗字を使ってもいいよ」と許可が出たものの、警戒して名乗らない人が多かったため、明治8年にはすべての国民に義務化しました。急に言われて困った人々は、お寺の住職に相談したり、地形や方角から「田中」「山本」とつけたりして急場をしのいだそうです。今ある多彩な名字の多くは、この時の知恵から生まれました。
9.夏目漱石の珍翻訳

千円札の肖像でもおなじみの文豪・夏目漱石が、英語教師をしていた頃のロマンチックな逸話です。生徒が「I love you」を「我君を愛す」と直訳したのに対し、漱石は「日本人はそんな直接的なことは言わない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておきなさい」と指導したと言われています。控えめで奥ゆかしい日本人の美意識が表れた素晴らしい表現として、現代でも愛の告白の代名詞として語り継がれていますね。
10.アイスクリームの値段

日本初のアイスクリームは、明治2年に横浜の馬車道で「あいすくりん」という名前で発売されました。牛乳と砂糖、卵黄だけで作られた素朴な味でしたが、当時は1杯で現在の価値にして約8000円もする超高級品でした!しかも最初は、見慣れない冷たい食べ物に人々が警戒してしまい、まったく売れずに店主が苦労したそうです。その後、宮内省御用達になったことで評判が広まり、文明開化の味として大人気になりました。
11.警察官は元武士ばかり

明治7年に現在の警察組織の元となる「東京警視庁」が誕生しました。このとき採用された「邏卒(らそつ)」と呼ばれる警察官約3000人のうち、なんと大半が鹿児島県出身の元薩摩藩士など、職を失った侍たちだったのです。刀を警棒に持ち替えたものの気位は高いままで、市民に対して昔のような威圧的な態度をとることも少なくなかったとか。「オイコラ警察」と呼ばれた厳しさの背景には、武士の魂が残っていたのですね。
12.混浴禁止と民衆の反発

江戸時代までの銭湯は男女が一緒に入るのが当たり前の光景でしたが、開国後に来日した外国人から「野蛮だ」と指摘されてしまいます。体裁を気にした明治政府は、たびたび浴槽を分けるよう命令を出しました。しかし庶民もすぐには従わず、申し訳程度に低い仕切り板や縄を張っただけでごまかす銭湯が続出したそうです。西洋の道徳観と日本の伝統的な習慣がぶつかり合った、当時のユニークな攻防戦が目に浮かびますね。
13.日曜休日の始まり

江戸時代の人々は、毎月「1と6のつく日」などを休みにしていましたが、明治9年から官公庁で土曜日を半ドン(午前中のみ勤務)とし、日曜日を休みとする制度が導入されました。これは、お雇い外国人たちがキリスト教の習慣に合わせて週末に仕事を休んでいたことに歩調を合わせたためです。「半ドン」の「ドン」とは、正午を知らせるために撃たれていた空砲(午砲)の音に由来しており、街中に大きな音が響き渡っていたそうです。
14.ランドセルの語源

小学生の必需品であるランドセルも、実は明治時代に生まれたアイテムです。もともとは幕末に輸入された、オランダ語で背負い鞄を意味する「ランセル」という軍隊用のバッグがルーツでした。明治18年、学習院初等科が馬車や人力車での通学を禁止し、自分の荷物は自分で背負って歩くという教育方針を打ち出した際、この軍用バッグを子供向けに改良して採用したのが始まりです。伊藤博文が皇太子へ献上したことで全国に広まりました。
15.日本初のビール醸造所

明治3年、横浜の山手に日本初の醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立されました。当初は居留地の外国人向けに作られていましたが、やがて日本人の間でも「苦いけれどクセになる西洋の酒」として大流行します。街には「ビヤホール」が誕生し、ガラスのジョッキで冷たい生を飲むスタイルがハイカラな大人の楽しみとして定着しました。現代の私たちが仕事帰りに一杯楽しめるのも、この時代の開拓者たちのおかげです。
16.鹿鳴館の過酷な特訓

不平等条約の改正を目指した明治政府は、日本が文明国であることをアピールするため、明治16年に社交場「鹿鳴館」を建設しました。ここでは毎晩のように舞踏会が開かれましたが、コルセットで体を締め付ける洋装や社交ダンスに、当時の華族の女性たちは大苦戦!お雇い外国人の教師を招いて必死にステップを練習し、慣れない革靴で足のマメを潰しながら、国の威信をかけて笑顔でワルツを踊り続けたという涙ぐましい努力がありました。
17.鉛筆は博覧会から

明治6年、オーストリアで開催されたウィーン万国博覧会に参加した日本の技術者が、現地で黒鉛を木で挟んだ筆記具の製法を学んで帰国しました。それまでの日本では、矢立(やたて)という携帯用の筆と墨を使って文字を書いていましたが、墨を磨る手間がなく、どこでもすぐに書ける便利な道具は瞬く間に注目を集めました。明治19年には現在の三菱鉛筆の前身となる工場も誕生し、学校の普及とともに子供たちの必須アイテムとなっていったのです。
18.カフェーの女給さん

明治44年、東京の銀座に「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」といった本格的な飲食店が相次いでオープンしました。ここで働く女性たちは「女給」と呼ばれ、白いエプロン姿で洋食や洋酒を運ぶモダンな職業として大人気になります。当時はまだ珍しかったチップ(心付け)を客から直接受け取るシステムがあり、人気のスタッフは企業の重役並みの高収入を得ることもあったそうです。文豪や芸術家たちもこぞって通い詰めました。
19.ガス灯は妖術と呼ばれた

明治5年、横浜の馬車道通りに日本初のガス灯が灯されました。それまで行灯(あんどん)や提灯のほのかな明かりしか知らなかった人々は、昼間のように明るく輝く青い炎を見て腰を抜かすほど驚いたそうです。「パイプの中を火が通っているらしい」「いや、あれは西洋のキリシタンの魔法だ!」と噂になり、わざわざ遠方から見物ツアーが組まれるほどの観光名所になりました。夜の街を安全に歩けるようになった歴史的な一歩ですね。
20.小学校の出席率は半分

明治5年に「学制」が発布され、すべての子供が学校に通う仕組みが作られました。しかし当初の就学率は、なんと全国平均で3割から5割程度と非常に低かったのです。その理由は、当時の授業料が有料で家計の負担が大きかったことに加え、子供は貴重な農業や家事の労働力だったためです。「勉強なんてさせたら畑仕事の手が足りなくなる!」と反発する親も多く、義務教育が無償化された明治33年以降、ようやくほぼ全員が通えるようになりました。
21.福沢諭吉の莫大な印税

「天は人の上に人を造らず」で始まる『学問のすゝめ』は、明治5年の発売以降、シリーズ累計で約340万部を超える空前の大ベストセラーとなりました。当時の日本の人口が約3500万人だったことを考えると、国民の10人に1人が読んだ計算になります!この本の印税だけで、現在の価値にして数十億円もの収入があったと言われており、彼はその莫大な資金を惜しみなく慶應義塾の運営や人材育成のために注ぎ込みました。
22.電話交換手は憧れの職

明治23年に東京と横浜で電話サービスが始まりましたが、当時は相手に直接つながるのではなく、局にいるスタッフに相手の番号や名前を伝えて回線をつないでもらう仕組みでした。最初は男性も採用されましたが、言葉遣いの丁寧さや声の聞き取りやすさから、すぐに女性だけの職場となります。袴にブーツというハイカラな制服姿で最新機器を操る彼女たちは「電話のエンジェル」と呼ばれ、当時の若い女性たちの憧れの職業ナンバーワンでした。
23.人力車は日本人の発明

西洋の馬車からヒントを得て、明治2年に日本で誕生したのが「人力車」です。江戸時代の駕籠(かご)は2人がかりで担ぐ必要がありましたが、車輪をつけたことで1人でも速く楽に人を運べるようになり、爆発的に普及しました。飼料代がかかる馬と違って維持費が安かったこともあり、最盛期には東京だけで数万台が走り回っていたそうです。さらにはアジアや欧米へも輸出される日本の主力商品となり、世界中の街角を駆け抜けました。
24.裸体禁止令で風邪ひき

江戸時代までの夏の日本では、大工や駕籠かきなどの労働者がふんどし一丁の裸で街を歩くのはごく普通の光景でした。しかし明治4年、外国人の目を気にした政府が人前で肌を露出することを禁じる条例を出します。突然「服を着ろ」と言われた庶民は困惑し、巡査の姿が見えたときだけ慌てて手ぬぐいを肩にかけるなどして抵抗しました。中には、慣れない服を着て汗が冷えたせいで、かえって体調を崩す人もいたという笑えないエピソードも残っています。
25.カレー粉は薬局で売られた

国民食であるカレーライスも、明治初期にイギリスから伝わった料理です。実は当時のスパイスに使われているウコンや陳皮などは、すべて漢方薬の原料と同じものとして扱われていました。そのため、初期の国産品は食品店ではなく、なんと薬種問屋(現在のドラッグストアのようなお店)が製造・販売していたのです!「胃腸を温める滋養強壮の薬味」として広まったものが、今や誰もが愛する定番メニューになっているなんて面白いですよね。
26.海水浴は医療行為

明治18年、神奈川県の大磯に日本初の海水浴場が開設されました。しかし当時は、今のようにビーチで泳いで遊ぶレジャーではなく、冷たい潮風に当たり、波に打たれて心身を鍛える治療法だったのです!松本順という軍医が「海の水には病気予防の効果がある」と提唱したもので、参加者は医師の処方に従って決まった時間だけ海に浸かるという大真面目なものでした。岩場に鎖が張られ、波に流されないよう必死にしがみついていたそうです。
27.自転車は高級外車並み

明治初期に輸入された自転車は、前輪が極端に大きく後輪が小さい「だるま型」と呼ばれるユニークな形をしていました。タイヤもまだゴムのチューブではなく鉄や木の車輪だったため、でこぼこ道を走るとお尻が飛び跳ねるほど乗り心地が悪かったそうです。それでも価格は現在の価値で数百万円もする超高級品だったため、裕福な華族や商人たちが競って買い求め、自慢げに銀座の通りを乗り回すステータスシンボルとなっていました。
28.ラムネのビー玉の秘密

明治5年頃に製造が始まった炭酸飲料「ラムネ」は、英語の「レモネード」が訛って名付けられました。あの特徴的なガラス玉の栓は、炭酸ガスの圧力で内側から玉を押し上げて密閉するというイギリスの発明品を取り入れたものです。当時、コレラが流行した際に「炭酸水を飲むと予防になる」という噂が広まり、薬代わりの健康飲料として大ヒットしました。シュワシュワと泡立つ不思議な飲み物は、文明開化の象徴として大人から子供まで魅了したのです。
29.新聞を朗読する職業

明治に入ると各地で新聞が創刊されましたが、当初は難しい漢字が多く、文字を読めない人もまだたくさんいました。そこで登場したのが、街角や寄席で最新のニュースを面白おかしく節をつけて読み上げる「新聞読み」という専門の仕事です。さらに地域によっては、村人が集まって知識人に記事を読んでもらう集会も開かれていました。現代でいうテレビのニュースキャスターのような役割を、生身の人間が熱量たっぷりに果たしていたのですね。
30.時計塔と時間厳守の習慣

江戸時代までは日の出と日没を基準に時間を決める「不定時法」だったため、季節によって1時間の長さが変わっていました。明治6年に1日を24時間とする「定時法」が採用されると、都市の各地にシンボルとなる大きな時計が建てられます。汽車の発車時刻や工場の始業時間に遅れないよう、人々は初めて「分単位で行動する」という感覚を身につけました。日本人が世界でもトップクラスに時間を守る国民になったのは、この時の意識改革が始まりだったのです。
まとめ
明治時代の雑学30選、いかがでしたでしょうか?ちょんまげを落とし、初めて牛肉やアイスクリームを口にし、汽車の時間に追われて走る……そんな当時の人々の驚きや戸惑い、そして新しい文化を楽しむエネルギーが伝わってきたのではないでしょうか。
私たちが今、当たり前に使っているランドセルや郵便ポスト、カレーライスにも、すべて先人たちの試行錯誤とユーモアあふれる物語が隠されています。次に銀座の街を歩いたり、あんパンを食べたりするときは、ぜひこの激動の時代に思いを馳せて、周りの人にも教えてあげてくださいね!
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