幕末の京都を舞台に、己の信念を貫いて駆け抜けた「新選組」。ドラマや漫画、アニメやゲームなどでもたびたび描かれ、近藤勇や土方歳三、沖田総司といった個性豊かなメンバーたちは、時代を超えて今も多くの人を魅了し続けています。冷徹な剣客集団というクールなイメージがある一方で、記録をひもといてみると驚くほど人間味あふれるお茶目な素顔や意外な豆知識がたくさん残されているのをご存じでしょうか。
今回は、そんな新選組にまつわる面白い雑学やエピソードを30個厳選してご紹介します。隊士たちの知られざる日常や好物、有名な羽織の秘密から、剣豪たちの驚きの逸話まで幅広くまとめました。歴史の授業ではなかなか教わらない新選組のディープで親しみやすい魅力を、ぜひ最後まで楽しみながらご覧ください。
1.選と撰は両方とも正解

新選組を漢字で書くとき、「選」と「撰」のどちらが正しいのか迷ったことはありませんか。結論から言うと、当時の史料でも両方の漢字が使われており、歴史的にはどちらの表記を使っても間違いではないとされています。近藤勇や土方歳三が書いた手紙でも両方が混在していますが、現在の歴史教科書や研究書では、京都守護職から拝命した際の記録にならって「新選組」と表記するのが一般的になっています。
2.だんだら羽織は1年だけ

新選組といえば、浅葱色(水色)に白い山形模様が入った「だんだら羽織」がトレードマークですよね。しかし、この有名な羽織が実際に着用されていたのは、結成初期のわずか1年ほどの短い期間だけでした。戦いの際に血しぶきなどで汚れが目立ちやすかったことや、あまりにも派手で京都の町中で目立ちすぎてしまい、隠密行動に向かなかったことから、すぐに黒っぽい地味な服装へと変更されたのです。
3.羽織のデザインの元ネタ

鮮やかな浅葱色のだんだら羽織をデザインしたのは、初期の幹部であった芹沢鴨や近藤勇たちだと言われています。この特徴的なデザインの元ネタは、江戸時代に大人気だった歌舞伎や浄瑠璃の演目『仮名手本忠臣蔵』に登場する赤穂浪士の討ち入り装束でした。武士としての誇りや、主君への忠義を最後まで貫いて潔く散るという強い覚悟を、憧れの赤穂浪士の姿に重ね合わせて表現していたのです。
4.近藤と土方は武士でない

幕末の武士道を象徴する存在として語られる新選組ですが、中心人物である近藤勇と土方歳三は、もともと武士の生まれではありませんでした。ふたりとも現在の東京都日野市や調布市にあたる、武蔵国多摩地域の豊かな農家の出身だったのです。当時、多摩地域では治安維持や護身のために剣術が盛んに学ばれており、そこで天然理心流の腕を磨いた農民出身の若者たちが、本物の武士以上の武士道精神を見せることになりました。
5.土方歳三の前の職は薬売

「鬼の副長」として恐れられた土方歳三ですが、浪士組に参加して京都へ上る前は、実家で家業の薬売りをしていました。彼の生家である土方家は、打ち身や捻挫、骨折などに効く家伝の秘薬「石田散薬(いしださんやく)」を製造・販売していたのです。歳三は薬箱を背負って各地を行商して回る傍ら、行く先々の道場に立ち寄っては他流試合を申し込み、実戦的な剣の腕前をひたすら鍛え上げていたと伝わっています。
6.土方はかなりのモテ男

現代に残る洋装の写真からも端正な顔立ちがうかがえる土方歳三は、当時から女性に大変な人気がありました。京都時代には、あまりに多くの芸妓や女性たちと浮名を流したため、故郷の親戚に宛てて「モテすぎて困っている」と女性たちの名前を書き連ねた自慢の手紙を送ったほどです。冷徹で厳しい副長という顔の裏には、自分のモテぶりを地元の身内に思わず報告してしまうような、人間味あふれるお茶目な一面がありました。
7.土方の俳句の腕は微妙

文武両道を目指していたのか、土方歳三は「豊玉(ほうぎょく)」という雅号を持っており、趣味でたくさんの俳句を詠んでいました。京都へ出発する前には、自分で詠んだ41句をまとめた『豊玉発句集』という句集まで作っていますが、その腕前は専門的な視点から見るとかなり素朴で初心者レベルだったと言われています。「春の草 五色までは 覚えけり」など、ひねりのないストレートすぎる句が多く、どこか微笑ましさを感じさせます。
8.沖田総司は美少年でない

小説やアニメ、ゲームなどの創作物では、透き通るような色白の美少年・美青年として描かれることが多い一番隊組長の沖田総司。しかし、彼の容姿を知る親族や関係者の証言によると、実際は「色黒で笑うと愛嬌があるヒラメのような顔立ち」だったと記録されています。現代のイケメン像とは少し違いますが、背が高くていつも明るく冗談ばかり言っており、周囲の人々や近所の子どもたちからとても好かれる青年でした。
9.沖田の三段突きは必殺技

天才剣士と呼ばれた沖田総司の代名詞といえば、目にもとまらぬ速さで繰り出される「三段突き」です。一見すると創作上の必殺技のように思えますが、これは天然理心流の稽古でも行われていた、1回の踏み込みで「タン・タン・タン」と3連続の突きを放つ実在の技でした。沖田の剣は、相手が3回突かれたことにすら気づかず「1回の突き」だと錯覚するほど神速だったと語り継がれています。
10.沖田の愛刀・菊一文字は嘘

小説などの影響で「沖田総司の愛刀=菊一文字則宗」というイメージが広く定着していますが、実はこれは後世の創作です。鎌倉時代の名刀である菊一文字は、当時でも大名クラスしか持てない国宝級の品であり、実際の沖田が愛用していたのは「加州清光」と「大和守安定」という刀でした。どちらも実戦向きの優れた業物であり、沖田はこれらの刀を手入れしながら幕末の激しい戦いを駆け抜けました。
11.近藤勇の特技は拳を呑む

新選組の局長として威厳を放っていた近藤勇には、ちょっと変わった身体的な特徴と特技がありました。それは人並み外れて口が大きかったことで、なんと自分の握り拳(こぶし)をすっぽりと口の中に入れてしまうことができたそうです。严肃な武士のイメージとは裏腹に、宴席や仲間内での座興としてこの特技を披露し、隊士たちや周囲の人々を驚かせて場を和ませていたという微笑ましい逸話が残っています。
12.近藤勇はとろろ飯19杯完食

体が大きく恰幅の良かった近藤勇は、かなりの大食漢で、しかも大の甘党だったことが知られています。あるとき、親しい人の屋敷に招かれて好物の「とろろ飯」を振る舞われた際、あまりの美味しさに19杯もおかわりをして完食したという記録が残っています。遠慮して20杯目にいかなかったのか、本当にお腹いっぱいになったのかは定かではありませんが、彼の豪快な性格がよく伝わるエピソードです。
13.土方歳三の好物はたくあん

甘党だった近藤勇とは対照的に、土方歳三はお酒をたしなむ辛党で、食事の際には「たくあん(沢庵漬け)」に目がありませんでした。特に故郷の多摩で作られるたくあんが大好物で、「たくあんさえあれば、他にどんな贅沢なおかずもいらない」と語るほどこだわっていたそうです。京都でも故郷から送られてきたたくあんを大切に味わい、厳しい戦いの日々の中で地元の味に癒やされていました。
14.屯所で豚を飼い食べていた

当時の日本ではまだ肉食の習慣が一般的ではありませんでしたが、新選組はスタミナをつけるために、いち早く豚肉を食事に取り入れていました。二番目の屯所となった西本願寺では、境内で直接ブタを飼育し、解体して豚鍋などにして食べていたという記録があります。神聖な仏教寺院の敷地内で肉食のために動物を飼って調理する振る舞いに、お寺の僧侶たちは大変頭を抱えて迷惑がっていたそうです。
15.最強の剣士は永倉新八説

新選組で一番強かったのは誰かという議論では、沖田総司や斎藤一の名前がよく挙がりますが、隊士たちの証言では二番隊組長の永倉新八を推す声が非常に多くあります。元隊士の阿部十郎は後年、「沖田よりも斎藤よりも、実は永倉新八が一番強かった」と証言を残しています。神道無念流の免許皆伝であった永倉は、池田屋事件でも最前線で奮闘し、数々の激戦を生き抜いた正真正銘の剣豪でした。
16.「龍飛」と渾名された剣豪

その永倉新八の剣の腕前は、新選組の内部だけでなく京都の町でも広く知れ渡っていました。彼の剣さばきはあまりにも変幻自在で鋭かったため、当時の人々から「龍飛(りゅうひ)の剣」というカッコいい異名で呼ばれていたほどです。また、永倉は「新選組のナンバー2は土方ではなく、同じ同志である自分たちだ」という気概を持っており、近藤勇の横暴を諫めるために建白書を提出するなど、筋を通す熱い男でもありました。
17.斎藤一は明治に警察官へ

三番隊組長として、沖田や永倉と並ぶ剣の達人だった斎藤一。彼は戊辰戦争の会津戦争まで新選組として徹底抗戦しましたが、生き延びて明治時代を迎えると、「藤田五郎」と名前を変えて警視庁の警察官(抜刀隊など)として活躍しました。幕末には幕府側の治安維持組織として戦い、明治になってからは新政府側の警察官として西南戦争にも出陣し、生涯を通じて刀を手に治安を守り抜いた稀有な人物です。
18.多くの隊士が切腹した掟

新選組が恐れられた最大の理由は、「武士道に背くこと」「局を脱すること」「勝手に金策をすること」などを禁じた絶対のルール『局中法度(きょくちゅうはっと)』の存在です。この掟に違反した者は容赦なく切腹を命じられ、新選組の内部抗争や規律違反による死者は、敵との戦いで亡くなった人数よりも多かったと言われています。山南敬助をはじめ、多くの幹部や隊士がこの厳しい掟によって命を落としました。
19.芹沢鴨の鉄扇の漢字ミス

初代筆頭局長として権勢を振るった芹沢鴨は、常に長い鉄扇(てっせん)を持ち歩いていました。彼はその鉄扇に「尽忠報国(国に忠義を尽くして報いる)」という四文字熟語を彫らせていましたが、職人の手違いで「尽忠報国の士」の「報」の字が間違って刻印されていたという逸話があります。豪胆な芹沢はそれを気にせず愛用していたとも、間違いを指摘した職人を怒鳴りつけたとも言われ、彼らしいエピソードとして残っています。
20.山南敬助は超インテリ

温厚な性格で隊士たちから慕われていた総長の山南敬助は、北辰一刀流の達人であると同時に、新選組きっての知識人でした。漢学や国学に通じ、時勢を冷静に見つめる高い教養を持っていたため、刀を振るうだけでなく他藩との外交交渉や組織の頭脳としての役割も担っていました。しかし、新選組の方針を巡って近藤や土方と次第にすれ違うようになり、最終的には脱走を企てて潔く切腹する道を選びました。
21.池田屋事件は少数精鋭

1864年に起きた「池田屋事件」は、新選組の名前を全国に轟かせた最大の転換点です。大勢の隊士で一気に踏み込んだイメージがありますが、実際に池田屋の内部へ最初に突入したのは、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のわずか4人だけでした。当日、新選組は2つの部隊に分かれて京都中の怪しい場所を捜索しており、近藤隊の少人数で20人以上の尊王攘夷派志士たちを相手に死闘を繰り広げたのです。
22.池田屋で沖田は吐血せず

ドラマや映画の池田屋事件のシーンでは、戦いの最中に沖田総司が激しい咳き込みとともに喀血(吐血)して倒れる場面がおなじみですよね。しかし、一緒に突入した永倉新八の記録によると、当時の沖田が倒れた原因は結核の吐血ではなく、蒸し暑い夏の室内に大勢が密集して戦ったことによる「熱中症(または脳貧血)」だったとされています。彼が結核の症状で本格的に苦しみ始めるのは、これよりももう少し後のことでした。
23.隊士たちの給料は高収入

命がけで京都の治安を守る新選組の隊士たちは、当時としては破格の給料をもらっていました。平隊士であっても月に10両(現代の価値で約100万円前後)ほどの給料が支給されており、幹部クラスになるとさらに多くの手当が出るかなりの高収入でした。いつ命を落とすかわからない過酷な職場だったからこそ、十分な報酬を与えることで隊士たちのモチベーションを高め、優秀な人材を集めていたのです。
24.近藤勇は35歳で亡くなった

どっしりとした貫禄と威厳のあるリーダーとして描かれる近藤勇ですが、京都で新選組を結成した当時はまだ30歳になったばかりでした。そして、戊辰戦争で新政府軍に捕らえられ、板橋で処刑されたときの年齢も、実はまだ数え年で35歳(満33歳)という若さだったのです。現代の感覚で言えばまだ30代前半の若者たちが、国の未来を背負って命を懸けて戦っていたと思うと、幕末という時代の凄まじさが伝わってきます。
25.坂本龍馬と土方は同い年

幕末の英雄である坂本龍馬と、新選組の土方歳三。立場は違えど同じ京都の町を駆け抜けたふたりですが、実はどちらも天保6年(1835年)生まれのまったくの同い年でした。さらに、新選組を預かっていた会津藩主の松平容保も同い年です。ちなみに、土方歳三の甥っ子である佐藤彦五郎の息子は、後に坂本龍馬の写真を非常に気に入って大切にしていたなど、不思議な縁も語り継がれています。
26.沖田は近藤の死を知らない

1868年4月、局長の近藤勇が新政府軍に処刑された頃、沖田総司は江戸(現在の東京都千駄ヶ谷付近)で重い結核のため病床に伏していました。周囲の者たちは、沖田が敬愛してやまない近藤の死を知れば病状が悪化すると考え、沖田が息を引き取る最後の瞬間まで、近藤勇が処刑された事実を隠し通したのです。沖田は亡くなる数日前まで「先生(近藤)はどうしていますか」と気にかけていたと伝わり、涙を誘う逸話となっています。
27.沖田が最期に斬ろうとした猫

千駄ヶ谷の植木屋の離れで療養していた沖田総司には、亡くなる直前の悲しくも印象的なエピソードが残っています。庭に毎日やってくる1匹の黒猫を不吉に思った沖田は、死の数日前、刀を抜いてその黒猫を斬ろうとしましたが、病で衰弱しきった体では猫を斬ることすらできず、「ああ、斬れない」と嘆いて寝込んだそうです。かつて天才剣士と謳われた自分の衰えを悟った沖田は、その数日後に20代半ばの若さで静かに息を引き取りました。
28.大砲や洋式銃も使っていた

新選組といえば「刀と槍だけで戦う時代遅れの集団」というイメージを持たれがちですが、実際には西洋の最新兵器も積極的に導入していました。とくに戊辰戦争が始まってからは、副長の土方歳三が中心となって戦術を近代化させ、隊士たちに洋式銃や大砲を装備させて西洋式の軍隊戦術で新政府軍と渡り合ったのです。土方自身も洋装に身を包み、箱館戦争では卓越した近代戦の指揮官としての才能を遺憾なく発揮しました。
29.永倉新八は映画を見てダメ出し

大正時代まで長生きした二番隊組長の永倉新八は、晩年を北海道の小樽で過ごしました。あるとき、孫を連れて映画館へ行き、新選組や近藤勇を題材にした活動写真(映画)を観賞したのですが、スクリーンの殺陣を見て「近藤はあんな飛び跳ねるような戦い方はしない!」と本気でダメ出しをしたそうです。本物の死線をくぐり抜けてきた当事者ならではのリアルなツッコミに、周囲の観客も驚いたことでしょう。
30.生き残り隊士が歴史を残した

明治時代に入ると、賊軍とされた新選組は長らく悪役のように扱われ、本当の歴史が闇に葬られそうになっていました。そこで立ち上がったのが生き残った永倉新八や斎藤一たちで、近藤勇と土方歳三の汚名をそそぐために板橋に慰霊碑を建立し、新聞記者の取材に応じるなどして新選組の真実の記録を後世に書き残したのです。現代の私たちが新選組のカッコいい生き様や詳しいエピソードを知ることができるのは、彼らが仲間への想いを語り継いでくれたおかげなのです。
まとめ
新選組の雑学30選、いかがでしたでしょうか。冷徹な「壬生狼(みぶろ)」として恐れられた彼らですが、近藤勇の拳を呑む特技やとろろ飯の逸話、土方歳三のモテ自慢やたくあん好き、そして沖田総司の愛嬌のある素顔など、知れば知るほど親近感が湧く人間味たっぷりのエピソードばかりでしたね。農民の出身でありながら誰よりも武士らしく生きようとした彼らの姿は、やっぱり時代を超えて胸を熱くさせてくれます。
もし今後、大河ドラマやアニメ、漫画などで新選組を見かける機会があれば、今回ご紹介しただんだら羽織の秘密や隊士たちの知られざる裏話をぜひ思い出してみてくださいね。家族や友人との会話のネタとしても盛り上がること間違いなしですので、気になった豆知識があれば、ぜひ周りの人にもシェアして楽しんでみてください。
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