2024年7月に発行された新しい一万円札の顔として、毎日目にするようになった「渋沢栄一」。学校の教科書で名前は聞いたことがあっても、「具体的に何をした人なの?」「どんな性格だったの?」と聞かれると、意外と詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。実は、現代の私たちの暮らしを支える数々の仕組みを作った超重要人物なのです。
この記事では、渋沢栄一にまつわる面白いエピソードや、お札に隠された豆知識、さらにはちょっぴり人間味あふれる裏話まで、誰かに話したくなる雑学を30個厳選してご紹介します。これを読めば、財布の中の一万円札を見る目がきっと変わりますよ!
1.約500社の設立に関与

渋沢栄一が「日本資本主義の父」と呼ばれる最大の理由は、生涯で約500もの企業の設立や育成に関わったことにあります。みずほ銀行や東京ガス、帝国ホテル、キリンビール、JR東日本につながる鉄道会社など、現代日本を代表する大企業の多くが彼の手によって生み出されました。驚くべきことに、自分で財閥を作って富を独占することは一切しなかったため、これほど幅広い産業が日本で育ったのです。
2.実家は裕福な農家だった

武士や政治家として活躍したイメージが強い渋沢栄一ですが、生まれは武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家でした。ただの農家ではなく、養蚕や藍玉(染料の原料)の製造・販売、さらには金融業まで手がける非常に裕福な豪農だったそうです。幼い頃から父親の商売を手伝い、藍の買い付けや販売で大人顔負けの商才を発揮していたことが、のちの大実業家としての礎となりました。
3.幼少期は読書好きの暴れん坊

5歳頃から父や従兄の尾高惇忠に学問を習い始めた渋沢栄一は、驚異的な集中力で『論語』などの難しい書物を次々と読破しました。特に物語を読むのが大好きで、本に夢中になるあまり、歩きながら読書をして溝に落ちて服を泥だらけにしたこともあったそうです。勉強だけでなく神道無念流の剣術にも打ち込む活発な少年で、文武両道を地で行く子ども時代を過ごしていました。
4.高崎城乗っ取りを計画した

若き日の渋沢栄一は、外国人を追い払おうとする過激な「尊王攘夷」の思想に傾倒していました。23歳のときには仲間たちと武器を買い集め、なんと高崎城を乗っ取って横浜の外国人居留地を焼き討ちにするという無謀なテロ計画を企てます。しかし、決行直前に京都から戻った従兄の尾高長七郎に「無謀な挙兵は犬死にになる」と夜通し説得されて計画を断念し、九死に一生を得ました。
5.尊王攘夷派から幕臣へ転身

高崎城乗っ取り計画が幕府に漏れるのを恐れ、故郷を捨てて京都へ逃亡した渋沢栄一ですが、そこで大きな転機が訪れます。幕府を倒そうとしていたにもかかわらず、知人の平岡円四郎の推薦によって、のちに最後の将軍となる一橋慶喜(徳川慶喜)の家臣として仕えることになったのです。「幕府を内側から変えよう」と柔軟に考えを切り替えた決断が、彼の運命を大きく切り開きました。
6.パリ万博で欧州の文明に衝撃

1867年、27歳の渋沢栄一は徳川慶喜の弟・徳川昭武の随行員として、パリ万国博覧会へ派遣されました。そこで目にした蒸気機関車やガス灯、上下水道などの近代インフラ、そして証券取引所や銀行のシステムに強い衝撃を受けます。特に「国王の前でも軍人と実業家が対等に話す身分差のない社会」に深く感銘を受け、日本にもこの仕組みを取り入れようと決意しました。
7.フランスでちょんまげを断髪

パリに滞在している間、最初は着物にちょんまげ姿で過ごしていた渋沢栄一ですが、大政奉還の知らせを聞いて大きな決断を下します。現地の文化やビジネスをより深く学ぶため、日本で断髪令が出る4年も前に自らちょんまげを切り落として洋装に変えたのです。当時の洋装姿の写真は非常にダンディで、故郷の家族に写真を送ったところ、あまりの変貌ぶりに周囲が仰天したという逸話が残っています。
8.コーヒーとチョコに驚く

ヨーロッパへ向かう船旅やパリ滞在中に、渋沢栄一は生まれて初めて西洋の食文化に触れました。当時の日記には、初めて飲んだコーヒーについて「豆を粉にして煎じたもので、砂糖や牛乳を入れて飲むと胸がすっとする」と好意的に記しています。また、ココアやチョコレート、アイスクリームやビールなども現地で初体験し、その美味しさや製造方法に強い関心を寄せていました。
9.帰国後に大蔵省の官僚になる

明治維新によって幕府が倒れたため、帰国した渋沢栄一は静岡で徳川慶喜のそばに仕えながら商社や銀行のような仕組みを作って成功させていました。その手腕に目をつけた明治新政府の大隈重信から熱烈な勧誘を受け、大蔵省(現在の財務省)の役人となります。最初は断るつもりで乗り込んだものの、「新しい国づくりのために力が必要だ」と大隈に論破されて入省を決意し、日本の近代化を牽引しました。
10.郵便制度の基礎にも関わった

日本の郵便制度の父といえば前島密が有名ですが、実は渋沢栄一もその誕生に深く関わっています。大蔵省で前島密の上司だった渋沢栄一は、全国に手紙を届ける郵便システムの重要性をいち早く理解し、予算や制度面で前島を全面的にバックアップしました。ちなみに前島密が日本の「切手」を導入する際にも渋沢栄一が協力しており、二人は生涯にわたって強い信頼関係で結ばれていました。
11.富岡製糸場の設立主任だった

世界遺産にも登録されている群馬県の「富岡製糸場」ですが、その設立主任を務めたのも大蔵省時代の渋沢栄一でした。外貨を稼ぐために高品質な生糸を大量生産しようと計画し、フランス人技術者のブリューナを雇い入れて工場建設を指揮したのです。さらに、実家が養蚕農家だった知識を活かし、従兄の尾高惇忠を初代場長に抜擢して、全国から工女を集めるのにも尽力しました。
12.日本初の銀行を創設した

1873年に大蔵省を辞めた渋沢栄一は、民間人として日本初となる銀行「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立しました。「国立」という名前がついていますが、これはアメリカの「ナショナル・バンク」を直訳したもので、実際は国の法律に基づいて作られた民間銀行です。みんなから少しずつお金を集めて大きな事業に投資する「株式会社」の仕組みを、日本で本格的に広める第一歩となりました。
13.紙幣に自分の顔が載った

2024年に新一万円札の肖像となった渋沢栄一ですが、実は明治時代にもお札に自分の顔が印刷されたことがあります。1873年に発行された「第一国立銀行券」という紙幣には、当時まだ30代だった若き日の渋沢栄一が小さな肖像として描かれていました。さらに、1902年に韓国の第一銀行支店で発行された紙幣にも彼の肖像が使われており、お札の顔になるのは今回が初めてではなかったのです。
14.韓国で最初のお札の顔だった

先ほど触れた1902年発行の「第一銀行券」は、当時の大韓帝国で流通した近代的な紙幣の第1号でした。そこに当時の第一銀行頭取だった渋沢栄一の肖像画が大きく印刷されていたため、「韓国で最初のお札の肖像になった人物は渋沢栄一」という驚きの事実があります。異国の紙幣に日本の実業家の顔が採用されるほど、当時の東アジア経済において絶大な影響力を持っていたことがわかります。
15.新一万円札の肖像は想像画

2024年に発行された新一万円札の渋沢栄一は、脂が乗り切って活躍していた60歳代の頃の姿とされています。しかし、実は60歳代の鮮明な写真が残っていなかったため、70歳を過ぎてから撮影された複数の写真をもとに、シワを減らすなどして60歳代を想像して描かれたものなのです。国立印刷局の工芸官が緻密な彫刻技術で若返らせたという、新紙幣ならではの面白い裏話です。
16.お札の裏の東京駅とも縁深い

新一万円札の裏面には「東京駅の丸の内駅舎」が描かれていますが、これも渋沢栄一と非常に深い関わりがあります。東京駅の赤レンガ駅舎が1914年に完成した際、そこに使われた大量のレンガを製造したのは、渋沢栄一が故郷の埼玉県深谷市に設立した「日本煉瓦製造」という会社でした。お札の表と裏で、渋沢栄一の功績が見事にリンクする粋なデザインになっているのです。
17.お札になるまで時間がかかった

これほど偉大な人物でありながら、なぜ令和になるまで日本銀行券の肖像に選ばれなかったのでしょうか。その最大の理由は、偽造防止の観点から「長いヒゲのある人物」が優先されてきたため、ヒゲのない渋沢栄一は見送られ続けてきたと言われています。近年になって3Dホログラムなどの最新技術でヒゲがなくても高度な偽造防止が可能になったため、ついに一万円札の顔に抜擢されました。
18.岩崎弥太郎と大喧嘩した

三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎とは、ビジネスに対する考え方が正反対でした。ある日、岩崎から向島の料亭(屋形船)に招待され、「二人で手を組めば日本の経済を独占して大儲けできる」と持ちかけられます。しかし、みんなの利益を重んじる渋沢栄一は「独占ではなく合本(株式会社)で国を豊かにすべきだ」と猛反発して大口論となり、席を蹴って帰ってしまったという熱いエピソードが残っています。
19.約600の社会事業を支援

企業を作って経済を発展させるだけでなく、福祉や医療、国際親善といった約600もの社会公共事業に生涯を捧げたのも渋沢栄一のすごいところです。日本赤十字社の創設に関わったり、聖路加国際病院の建設を支援したりと、利益の出ない活動にも私財を惜しみなく投じました。特に身寄りのない高齢者や孤児を保護する「東京都養育院」の院長は、亡くなるまで約50年間も務め上げたほど力を入れていました。
20.多くの大学の設立に尽力

「国を発展させるには人材育成が不可欠」と考えた渋沢栄一は、教育機関の設立にも情熱を注ぎました。一橋大学の前身である商法講習所をはじめ、早稲田大学、同志社大学、拓殖大学などの支援に深く関わっています。特に女性の教育の重要性を強く訴え、日本女子大学や東京女学館の創設を主導したことは、当時の時代背景を考えると非常に先進的な取り組みでした。
21.ノーベル平和賞の候補に2度

実業家としての顔だけでなく、民間外交のリーダーとしても世界中で活躍しました。アメリカで日本人移民の排斥運動が起きた際には自ら渡米して要人と対話し、日米関係の改善に奔走したほか、関東大震災の際には世界中から支援金を集める窓口にもなりました。こうした国際平和への貢献が高く評価され、1926年と1927年の2年連続でノーベル平和賞の候補にノミネートされています。
22.青い目の人形で日米親善

昭和初期、緊張が高まっていた日米関係を和らげようと、アメリカから日本の子どもたちへ約1万2千体もの「青い目の人形」が贈られました。この友情人形を受け入れる日本側の代表を務めたのが、当時80代だった渋沢栄一です。お返しとして日本からも精巧な市松人形(答礼人形)をアメリカの各州へ贈り、子どもたちの純粋な心を通じた平和交流を実現させました。
23.エジソンとアメリカで会談

1902年や1909年にアメリカを訪問した際、渋沢栄一は「発明王」として名高いトーマス・エジソンと直接会って対談しています。エジソンの研究所を訪れた渋沢栄一に対し、エジソンは日本の武士道精神や経済発展について熱心に質問したそうです。世界のトップランナーである二人が意気投合し、記念撮影をして笑顔で語り合った写真が現在も残されています。
24.ヘレン・ケラーとも対面した

三重苦を乗り越えて世界中で講演を行ったヘレン・ケラーとも、1909年の渡米時にボストンで対面しています。教育や福祉に強い関心を持っていた渋沢栄一は、彼女の姿に深く感銘を受け、のちに彼女が初来日するきっかけを作りました。残念ながら渋沢栄一の存命中に来日は叶いませんでしたが、1937年に来日したヘレン・ケラーは飛鳥山の渋沢邸を訪れ、彼の銅像を手で触れて偲んだと伝えられています。
25.名著『論語と算盤』は口述筆記

現代のビジネスマンやメジャーリーガーの大谷翔平選手も愛読していることで知られる名著『論語と算盤(そろばん)』。道徳(論語)と経済(算盤)は両立させるべきだと説いた本ですが、実は渋沢栄一が自分で原稿を書いたものではありません。彼が講演などで語った膨大な話を筆記者が書き留めて一冊にまとめた「口述筆記」の本だからこそ、語りかけるような分かりやすい文章になっているのです。
26.大好物は故郷の煮ぼうとう

世界中を旅し、フランスのフルコース料理なども味わった渋沢栄一ですが、生涯を通じて一番好きだった食べ物は、故郷・深谷市の郷土料理「煮ぼうとう」でした。幅広の麺と、特産品の深谷ねぎや根菜類を醤油ベースでたっぷり煮込んだ素朴な料理です。晩年になっても故郷の味を忘れず、お気に入りのオートミールや芋の煮っころがしと並んで好んで食べていたという庶民的な一面がありました。
27.確認される子供は20人前後

精力的に仕事をこなした渋沢栄一は、私生活でも非常にエネルギッシュでした。最初の妻・千代と後妻・兼子との間に生まれた子どものほか、妾(愛人)との間にも多くの子どもをもうけており、記録で確認されているだけでも20人前後、一説にはそれ以上の子どもがいたと言われています。当時の大実業家としては珍しくなかったとはいえ、家庭内でも並外れたバイタリティを持っていたようです。
28.暗殺未遂に遭うも軽傷で生還

明治時代、東京市の水道管(鉄管)の輸入をめぐるトラブルで、逆恨みした暴漢2人に馬車を襲撃されるという暗殺未遂事件が起きました。刀を持った犯人に斬りつけられ、馬車の御者が重傷を負う絶体絶命のピンチでしたが、渋沢栄一はとっさの判断で難を逃れます。若い頃に鍛えた剣術の勘が働き、鼻の頭に軽い擦り傷を負っただけで生還したという、まるで映画のような強運の持ち主でした。
29.自分の銅像の制作を断っていた

生前から絶大な尊敬を集めていた渋沢栄一のもとには、「ぜひ功績を称えて銅像を作らせてほしい」という申し出が何度も寄せられました。しかし、彼は「自分はまだ生きているし、そこまで偉い人間ではない」と謙遜し、長年にわたって銅像の制作を固辞し続けていたそうです。最終的には周囲の熱意に押されて作られましたが、偉ぶらず常に謙虚であり続けた人柄が周囲から愛された理由でもありました。
30.享年91歳の大往生を遂げた

幕末から明治、大正、そして昭和へと激動の時代を駆け抜けた渋沢栄一は、1931年(昭和6年)11月11日に91歳でその生涯を閉じました。当時の日本人男性の平均寿命が40代半ばだったことを考えると、91歳というのは驚異的な長寿です。亡くなる直前まで日本の将来や国際平和を案じて活動を続けており、葬儀の日には飛鳥山の自宅から青山斎場まで多くの市民が沿道を埋め尽くして別れを惜しんだといいます。
まとめ
新一万円札の顔・渋沢栄一にまつわる雑学を30個ご紹介しましたが、いかがでしたか?約500社の企業設立や約600の社会事業という圧倒的な功績だけでなく、ちょんまげを切って洋装を楽しんだり、煮ぼうとうを愛したりといった人間味あふれるエピソードを知ると、ぐっと親近感が湧いてきますよね。
「みんなが幸せになるために経済を動かす」という彼の熱い想いは、今の時代を生きる私たちにもたくさんのヒントを与えてくれます。ぜひお財布の中の一万円札を眺めながら、気になった豆知識を家族や友人にシェアして会話を盛り上げてみてくださいね!
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